太田述正コラム#10029(2018.8.25)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その33)>(2018.12.10公開)

 「戦争の起源は第一次世界大戦である。
 このように主張したのは幣原<喜重郎(注57)>総裁だった。

 (注57)彼も何度か取り上げているが、改めて紹介しておく。1972~1951年。「大阪府門真一番村(現・門真市)の豪農の家に生まれた。・・・第三高等中学校(首席卒業)を経て、1895年(明治28年) 東・・・大・・・法・・・卒業。浜口雄幸とは、第三高等中学校、<東大法>時代を通じての同級生であり2人の成績は常に1、2位を争ったという。

⇒幣原は、「武」の要素が皆無のバックグラウンドであることに注意。(太田)

 外務省入省後、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館に在勤後、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、オランダ公使を経て1915年(大正4年)に外務次官となり、第一次世界大戦後に・・・国際軍縮会議、ワシントン会議においては全権委員をつとめる。
⇒幣原に、支那に土地勘がなく、米英に土地勘が偏っていて、しかも、米事大主義者に育った可能性が見て取れる。(太田)

 外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初であった。以降、若槻内閣(1次・2次)、濱口内閣と憲政会→立憲民政党内閣で4回外相を歴任した。
 彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する<支那>においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年(大正14年)の5・30事件においては、在華紡(在中国の日系製糸会社)の<支那>人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。
 1926年(大正15年)に蒋介石が国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、<米国>とともに<英国>による派兵の要請を拒絶。

⇒これは幣原の致命的ミスであり、爾後、英国は、蒋介石政権迎合、反日、へと対東アジア政策の舵を180度切ることになった。(コラム#省略)(太田)

 しかし、1927年(昭和2年)3月に南京事件が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。
 1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年(昭和6年)夏、広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、<支那>は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E

 近代日本の急速な対外膨張のなかにのちの敗因が宿る。
 幣原はこのような見方を否定する。
 戦争調査会の調査範囲として、これでは広すぎる。
 そうではなくて、幣原は第一回総会(3月27日開催)においてつぎのように発言する。
 「私は此の戦争と云うものは第一次世界戦争からその因を発して居ると云う風に見て居るのであります」。
 明治維新にまでさかのぼるのは長すぎる。
 もう少し短い期間がよい。・・・

⇒幣原の口吻が気になります。
 歴史を書く際に、「さかのぼるの」は「短い期間がよい」もへったくれもないでしょう。必要があれば、「さかのぼる」べきなのですから・・。(太田)

 幣原は第二回総会(4月4日開催)でも自説を唱える。

⇒幣原外交こそ、日本の対英米戦を不可避たらしめたのです(「注57」中の私のコメント参照)が、そのような認識は、幣原には皆無だったようです。
 もっとも、少しでもそれめいた認識があったとすれば、彼、こんな(自分を断罪しかねない)調査会を立ち上げたりはしなかったでしょうね。
 「政界を退いた」後、先の大戦の終戦まで、幣原は、何も見ず、何も考えずに過ごしたようですね。(太田)

 以下ではこの日の発言から幣原の第一次世界大戦観を要約する。
 幣原が強調するのは第一次世界大戦が日本経済に及ぼした影響である。
 それまで日本は輸入超過の「貧乏国」だった。
 その日本が戦争景気に沸く。
 軍需品も民需品も不足する。
 日本は「全力を尽して軍需品、民需品を生産して彼等(連合国)に供給した」。
 その結果、日本国内はどうなったのか。
 「或る一部の実業家の連中はしこたま金を溜めて、そうして贅沢を始めた」。
 戦争成金の登場である。
 そうなると「風紀も紊れて来た」。
 そこへ関東大震災が日本を襲う(1938年9月1日)。
 日本経済は傾き、ふたたび輸入国へ転落する。
 第一次世界大戦の前年の1913年は9700万円の輸入超過だった。
 第一次世界大戦が終わった年は2億9400万円の輸出超過である。
 それが翌1919年には7400万円の輸入超過に陥る。
 その翌年は3億8800万円の輸入超過となった。
 震災の翌年(1924年)6月、護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)の政党内閣=加藤(高明)内閣が成立する。
 幣原はこの内閣の外相に就く。
 幣原のみるところ、加藤内閣の最重要課題は財政の緊縮による日本経済の立て直しだった。
 財政の緊縮は軍事費にも及ぶ。
 「軍隊の如きも段々縮小しなければならない。
 沢山な人を辞めさせなければならぬ」、そのような状況になった。
 さらに第一次世界大戦後の「平和とデモクラシー」の潮流が日本にも押し寄せる。
 「軍隊なんてものは余計なものだ」。
 世の中の風潮は軍部の地位を貶めた。
 幣原はこのような風潮を危惧した。
 「軍の人に対しては非常に神経を刺激して、不穏の情勢はそこの所に醸されて居ると私は其の時に思って居ったのであります」。

⇒何たる上から目線か、と憤りさえ覚えます。(太田)

 危機感に駆られた幣原は、陸軍軍縮を実行していた宇垣(一成)陸相に数度にわたって話した。
 「是は何とかしなければ若い軍人の人が間違った方向に走りはしないか」。

⇒こんなことが本当にあったかどうか、客観的典拠めいたものを幣原が出してくれないと、眉唾です。(太田)

 幣原は後悔する。
 「我々が余り財政緊縮を主にして、不必要にいろいろな方向の反感を惹き起したと云うことも、実は私等の責任のように考えて居って、何とか他の方法はなかったものかと近頃は胸に手を当てて考えて居ることがあるのです」。・・・
 <このように、幣原は行き過ぎた「平和とデモクラシー」をもたらした第一次世界大戦にのちの戦争の起源を見出した<わけだ>。」(133~136)

⇒幣原が、陸海軍内の島津斉彬コンセンサス信奉者達の焦りが理解できなかったのは止むをえないとしても、第一次世界大戦後の軍縮要因ばかり並べたて、東アジアの戦略環境に構造的な変化をもたらした、日本にとっては、軍拡の要因であったところの(太田)・・日英同盟の解消(1921年。失効は1923年8月(上掲))、に幣原が触れた形跡がないことも問題です。(太田)

(続く)