太田述正コラム#10027(2018.8.24)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その32)>(2018.12.9公開)
「明治維新にまでさかのぼらなくても、日露戦争はどうか。
すでに・・・<ずっと前に>言及したように、・・・馬場恒吾が否定している。
馬場にとって日露戦争は「帝国主義的侵略」戦争ではなかった。
帝政ロシアの打倒をめざすレーニンは、日本に「感謝」した。
なぜレーニンは「感謝」したのか。
マルクスとエンゲルスは戦争が革命をもたらすことに期待する戦争革命説の立場だった。
この戦争革命説の継承者レーニンは、自力では困難な帝政ロシアの打倒を日本に期待したからである。
敵の敵は味方だった。
ところがスターリンは帝政ロシアの復讐戦争として日ソ戦争を戦った。
馬場はソ連のご都合主義を批判する。
「その時分には自分の味方みたいに言って、今になって日本は怪しからんと言うのは、僕は怪しからんと思っているのだ。」・・・
この発言は、1945年9月2日のスターリンの対日勝利宣言を指しているいるように推測できる。
この日、国後島を占領したスターリンは宣言した。
「日本の侵略行為は、1904年の日露戦争から始まっている。
1904年の日露戦争の敗北は国民意識の中で悲痛な記録を残した。
その敗北は、わが国汚点を留めた。
わが国民は日本が撃破され、汚点が払われる日の到来を信じて待っていた。
40年間、われわれの古い世代の人々はその日を待った。
遂にその日が到来した」。・・・
馬場にとって日露戦争は日本の侵略戦争ではなかった。
「祖国防衛戦争」とまでは言いきれない。
しかし仮に日露戦争が日本による帝国主義戦争だからといって、何が問題なのか。
帝国主義の時代の世界において帝国主義戦争をするのは悪いのか。
馬場はそう言わんばかりの口ぶりだった。
さらに第一次世界大戦で日本は連合国の側について戦勝国になった。
第一次世界大戦を戦ったのはいけないことだったのか。
そんなことはない。
このような馬場の立場に立てば、戦争調査会は、戦争の起源を日露戦争や第一次世界大戦よりものちの時点に求めるべきだった。・・・
馬場と同様に明治国家を擁護したのが徳富蘇峰<(注56)>である。
(注56)既に当コラムで何度か取り上げたことがあるが、このくだりに関係ありそうな彼の事績を紹介しておく。
1863~1957年。肥後熊本藩郷士の子。「父の一敬は・・・横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。・・・官立の東京英語学校に入学するも・・・退学、京都の同志社英学校に転入学・・・洗礼を受け・・・学生騒動に巻き込まれて・・・卒業目前に中退・・・自由民権運動に参加した。・・・<そして、>リチャード・コブデンやジョン・ブライトらマンチェスター学派と呼ばれるヴィクトリア朝の自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった。
蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0
⇒コブデンやブライトは、あくまでも、(インドへのルートを守るための対露)クリミア戦争、や、アロー戦争、のような、英国による帝国主義戦争に反対した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%87%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88
のであって、戦争一般に反対したわけではないこと、に注意が必要です。(太田)
東条英樹の自殺未遂を冷笑した徳富も、1945年12月3日に今度は自分がA級戦犯容疑の指名を受ける。
徳富は裁判に備えて、弁護団に宣誓供述書を提出する。
徳富の宣誓供述書は弁明書というよりも近代日本を擁護する内容になっている。
徳富は言う。
維新政府を組織したる重(お)もなる人物に就て、其の一人一人を吟味するも、いまだ曾て侵略主義者が維新の根本政策を作為したとか、指導したと云う事は、事実の上に其の痕跡だも見出す事が出来ぬ」。
それでは明治維新は何をめざしたのか。
明治国家の目標は、幕末期に結ばされた不平等条約改正と国家的な独立の達成だった。
⇒徳富は、肥後熊本藩出身者としては珍しく、島津斉彬コンセンサスについて無知だったのでしょう。
明治国家の、と言って語弊があれば、少なくとも帝国陸海軍、の密教たる、及び、民間の島津斉彬コンセンサス信奉者達にとっては顕教たる、「アジア主義」、が抜け落ちています。(太田)
徳富のみるところ、日本は大正時代の中頃まで平和を維持した。
⇒徳富は、日清、日露、や、第一次世界大戦、は、日本に関しては帝国主義諸戦争ではないので、それらの諸戦時においても、日本に関しては「平和」だった、とでもいうのでしょうか。
彼の論理が私には理解不能です。(太田)
徳富は言う。
「大正の中期迄は、殆ど一切の事が秩序整然として、明治天皇の平和の意思を遵奉して行った」。
徳富にとって戦争の起源は、明治維新から日露戦争まではもとより、大正時代の中頃までもさかのぼることができなかった。
徳富の宣誓供述書でもう一つ注目に値する記述がある。
徳富は近代日本の中国認識が日本の破滅を招いたと批判している。・・・
徳富は・・・1938年2月1日・・・「大陸経営の成功す可き見込は無い」と断言<した。>・・・
「日本の親切が深厚なればなるほど、支那の民心は、必らず離反するに相違あるまい。
それは支那人に取りて、最大の禁物は、干渉政治であるからだ」。・・・
徳富は同じ趣旨のことを1939年・・・<に>も述べている。・・・
「我等は干渉もせず、放任もせず、彼等を誘掖(ゆうえき)[導き助けること]し、彼等を啓発し、彼らと協戮(きょうりく)[心を一つにし、力を合わせること]し、彼等と提携せねばならぬ」。
徳富は批判する。
日本人は遂(つ)いに支那人を諒解し得ない」。
そうだからこそ「我等の仕事の第一は、自から支那を諒解し、且つ支那人をして、日本を諒解せしむることだ」。
徳富は日本側の認識不足を批判して、国民に日中相互理解の促進を求めた。・・・
⇒こんな寝惚けたことを何度も大真面目で主張していたことからすると、徳富は、島津斉彬コンセンサスについて無知であったどころではなく、何と、(武に係る教育を一切受けた形跡がないこともあってか、)横井小楠コンセンサス信奉者ですらなくなってしまっていたようです。
彼と縁が深い横井小楠が、あの世で、どれほど、呆れ、嘆いたことでしょうか。
対露(対ソ)の抑止や戦争のためには、策源地である満州はもとより、その後背地である支那本土もまた、少なくとも無害化することが不可欠であり、そうである以上は、「自から支那を諒解し、且つ支那人をして、日本を諒解せしむる」だけでは話にならないのであって、日本としては、「深厚」なる「親切」でもって、支那に「干渉」せざるをえないはずだからです。(太田)
日清・日露両戦争を経て形成された大国意識によって、中国を軽視する見方がもたらされたとするならば、中国に対する認識不足は、戦争の直接的な起源ではなくても、背景の一つだったと考えるべきだろう。」(126~127、129~133)
(続く)