太田述正コラム#10031(2018.8.26)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その34)>(2018.12.11公開)

 「幣原と同様に、第一次世界大戦後とはいっても、より正確には1919(大正8)年だったと指摘する委員がいた。
 第一回総会における第三部会(財政経済)委員の渡辺銕蔵である。
 この年に何が起きたのか。
 渡辺によれば、この年は国家社会主義者の北一輝が「国家改造案原理大綱」<(注58)>を執筆した年だった。

 (注58)「1911年(明治44年)、中国の辛亥革命に、宋教仁など中国人革命家と共に身を投じた北は、1920年(大正9年)12月31日に帰国し、3年後の1923年(大正12年)に刊行した著作である。・・・
 <北は、>1919年(大正8年)に・・・『国家改造案原理大綱』を発表した。これが1923年(大正12年)に加筆修正されて『日本改造法案大綱』に改題された・・・
 北によれば明治維新によって日本は天皇と国民が一体化した民主主義の国家となった。しかし財閥や官僚制によってこの一体性が損なわれており、この原因を取り除かなければならない。その具体的な解決策は天皇によって指導された国民によるクーデターであり、三年間憲法を停止し両院を解散して全国に戒厳令をしく。男子普通選挙を実施し、そのことで国家改造を行うための議会と内閣を設置することが可能となる。・・・
 言論の自由、基本的人権尊重、華族制廃止(貴族院も廃止)、北の言うところの「国民の天皇」への移行、農地改革、普通選挙、私有財産への一定の制限(累進課税の強化)、財閥解体、皇室財産削減、労働者の権利確保、労働争議とストライキの禁止・・・<すなわち、>資本主義の特長と社会主義の特長を兼ね備えた経済体制へと移行・・・世界の資本家階級である<英国>や世界の地主であるロシアに対して日本が国際的無産階級として争い、・・・オーストラリアとシベリアを戦争によって獲得する・・・<。こうして、>日本は世界の王者になるべきであると<し>・・・た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%94%B9%E9%80%A0%E6%B3%95%E6%A1%88%E5%A4%A7%E7%B6%B1

 北の著作は二・二六事件(1936年)の首謀者たちに思想的な影響を及ぼした。
 二・二六事件で逮捕された北は、1936年10月5日の裁判において、「青年将校は改造法案を絶対的に信じ居りたるを承認するや」と問われて、つぎのように答えている。
 「何の程度に読まれて居るかを承知せざるも、青年将校間に読破せられあることを承認致します」。
 北が青年将校たちに及ぼした影響は思想信条上だけに留まらなかった。
 北の影響はより直接的だった。
 事件当日、反乱軍は首相官邸から北に電話で暫定内閣の首班候補の適任者を問い合わせる。
 問い合わせに答えて、北は真崎甚三郎陸軍大将を適任者として指示している。

⇒9月1日のオフ会「講演」原稿を読んでいただきたいが、真崎が適任などとした北には、人を見る目が全くなかった、と言わざるをえません。(太田)

 渡辺の理解するところによれば、北の著書は、外にあっては陸海軍の大拡張によるシベリア、満州、香港の奪取、内にあっては「その妨害になる特権階級、財閥其の他」の排除を議論していた。

⇒上と同様ですが、『日本改造法案大綱』ならぬ『国家改造案原理大綱』の内容の紹介としては間違っていないのかもしれないけれど、こんな渡辺(ないし井上?)による北の思想の紹介ぶりでは、北は、単なる横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者、ということになってしまいかねませんが、そんな紹介をしては、読者を誤解させてしまいます。(太田)

 渡辺にとって戦争の原因は軍部の反乱事件(二・二六事件)だった。
 二・二六事件の思想的な起源は北の著作である。
 そうだとすれば戦争の起源は、この著作が執筆された第一次世界大戦後の1919年になる。」(136~137)

(続く)