太田述正コラム#10033(2018.8.27)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その35)>(2018.12.12公開)
「軍縮の受容は平和な時代における軍人に対する国民の蔑視感情をもたらす。・・・
1922(大正11)年8月の『東京日日新聞』に掲載されている陸軍軍医の一文<を紹介しよう。>
「今や軍縮の声は陸海軍人を脅かし、彼らを『不安のドン底』に陥れている」。
子供が言うことをきかないと、親は「今に軍人にしてやるぞ」と脅す。
軍隊が演習で「ヘトヘトに疲れて」ある町にたどり着いても、「町の民家はいそいで戸をしめ、内から錠をおろす」。
兵隊の宿営<(注59)>を断わるためだった。
(注59)この場合の宿営は、「出動した部隊が兵営外で宿泊すること」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%BF%E5%96%B6-528129
だが、当時、いかなる場合に、いかなる条件で民家に宿営できたのか、等について、調べがつかなかった。
若い将校は結婚難に苦しめられ、「カーキ色の服は往来でも電車の中でも汽車の中でも、国民の癪の種」になっていた。・・・
⇒私は寡聞にして知らないのですが、「平和」な「軍縮」の「時代」に、他国でこの類のことがこれくらいの激しさで起こったというのであれば、井上はその例を示すべきでした。
恐らくですが、そんな例は殆どないはずです。
つまり、これは、日本特有の現象である可能性が高いのであって、その背景には、明治維新以降の弥生モードへの反発に由来するところの、縄文モードに回帰したい、との国民感情があったのではないか、というのが私の見立てなのです。
なお、「カーキ色」なら陸軍の制服であり、書いたのが陸軍軍医だったからそう書いただけだということも考えられるけれど、海軍軍人に対しては、これほどひどい「迫害」はなかったのではないか、という気がしないでもありません。(太田)
第一次世界大戦が終わった翌年(1919(大正8)年)度の国家歳出に占める軍事費の割合は45.8パーセントだった。
1921年には49.0パーセントに達している。
これらの数字は戦争直前のイギリスの40パーセント、フランスの25パーセントを上回る。
第一次世界大戦後の平和の到来にもかかわらず、日本の軍事費の伸び率は顕著だった。
結果として軍人の社会的な地位が下がろうが下がるまいが、軍縮を避けてとおることができなかったのは、誰の眼にも明らかだった。」(138~139)
⇒そんなバカな、一体、誰の眼だ、と叫びたくなります。
日本を英仏と同じ年で比較をしていない、ということも指摘しなければなりませんが、もっと根本的なことがあります。
日本は、英仏と違って第一次世界大戦に総力戦的に加わったわけではない(典拠省略)一方で、第一次世界大戦が終わってからも、欧米諸国に比べて桁が一つ違う大兵力をシベリア出兵にあて、しかも、欧米諸国と違って、ただ一国、1921年のワシントン会議開催時点以降も(、1922年10月まで)出兵を続けており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5
井上の例示した1921年時点においては、(ロシアは別にして、)日本だけではまだ戦時が続いていた、という・・。
しかも、ワシントン会議において、日英同盟が解消されることになり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
日本はその穴を埋めるための軍拡を理論上は必要としていたのですからね。(太田)
(続く)