太田述正コラム#10035(2018.8.28)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その36)>(2018.12.13公開)
「・・・世界の主要国が軍縮に取り組む中で、日本だけが反対すれば、それは陸海軍の組織利益を守るためのわがままだった。
同情の余地はなかった。
⇒繰り返しになりますが、その逆で、実は、指摘したように、同情の余地だらけだったわけです。
これに加えて、軍部内の島津斉彬コンセンサス信奉者特有の反対理由もあったのです。(具体的には、次回オフ会「講演」原稿に譲ります。)(太田)
ところが軍部の青年将校のなかから組織利益を超えて、国家の革新をめざす者が現われた。
軍縮と成金の時代に遭遇した彼らは「全く憤慨やる所を知らないものがあった」。
彼らは国家主義思想と結びつく。
⇒こういった文脈で「国家主義」という言葉を用いることにも私は反対ですが、ここでは、理由には立ち入りません。(太田)
国家主義思想の側は、「レビュー、ジャズ、喫茶店、酒場、明日に希望を持たない頽廃的享楽」に浸る大衆消費社会の「デモクラシー」状況に対するもっとも先鋭な最初の反動が1921(大正10)年9月28日の安田財閥の創立者安田善次郎刺殺事件<(注59)>である。
(注59)1838~1921年。「富山藩下級武士(足軽)の・・・子としてうまれる。安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士であった。・・・<無学。>・・・安田財閥の祖。・・・
1921年(大正10年)9月27日、・・・朝日平吾<に刺殺される。>・・・
斬奸状に曰く、「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」と記されてあったという。
朝日の葬儀には、全国の労働組合や支援者が善次郎に負けない葬儀をしようと駆け付け、盛大な物になった。また、当時のマスコミや新聞はこぞって朝日を英雄視したため[4]、事件の37日後に起きた原敬暗殺事件を誘発したと言われている。・・・
東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は善次郎の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付行為は世間に知られていなかった。・・・
曾孫・・・には洋子(オノ・ヨーコ、前衛芸術家)・・・がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E7%94%B0%E5%96%84%E6%AC%A1%E9%83%8E
朝日平吾(1890~1921年):「佐賀県藤津郡嬉野村不動山<(旧肥前藩?)>に生まれる。・・・<無学。一時陸軍に入隊。>・・・<1920年>3月の戦後恐慌で自身は株で大損し、安田財閥の首領・安田善次郎が株を一手に買い占めてまんまと2,000万円の利益を得たという黒い噂を耳にした。この事が善次郎暗殺を企てるきっかけとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E5%B9%B3%E5%90%BE
⇒安田が、私の、大学のみならず中学とまで、大いにご縁のある人物だったとは、全く知りませんでした。(太田)
国家主義者のテロリスト朝日平吾(あさひへいご)は、安田を刺殺する前に、声明書を認(したた)めている。
そこには有閑階級や富裕層への呪詛が記されていた。
⇒世論を背景として、「国家の革新をめざす者」達が目の敵にしたのは、弥生モードだったとはいえ、それは、主として、アングロサクソン化・・資本主義と政党政治、等・・なのであって、反軍的ムードこそ基調にあったとはいえ、その中には、青年将校等、親軍的な者達も少なくありませんでした。
井上は、このあたりの記述が無頓着過ぎます。(太田)
他方で軍部(とくに陸軍)内から総力戦体制の確立をめざす勢力が台頭する。
その里程標の原点となるのが1921(大正10)年10月27日のドイツのバーデン・バーデンにおける「盟約」である。
この日、永田鉄山(てつざん)、小畑敏四郎(おばたとしろう)、岡村寧次(やすじ)らののちに昭和軍閥を主導するメンバーが盟約を交わす。
⇒このくだりの井上の認識は、これまでの通説と言ってよさそうです(典拠省略)が、私に言わせれば、あらゆる意味で間違いです。(詳細は、やはり、次回オフ会「講演」原稿に譲ります。)(太田)
第一次世界大戦後の欧州情勢を観察すれば、世界は総力戦体制の時代に入ったことがわかる。・・・」(140~141)
⇒このこと自体は、その通りです。(太田)
(続く)