太田述正コラム#10055(2018.9.7)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その43)>(2018.12.23公開)
「・・・1932年7月から8月、英連邦諸国はカナダのオタワで英帝国経済会議を開催し、オタワ協定を結び、帝国内特恵関税制度を確立した。<(注62)>
(注62)「1931年9月に成立したマクドナルド挙国一致内閣は、深刻化する世界恐慌の影響から脱却するために、失業手当10%削減などの緊縮財政政策を実施するとともに、金本位制の停止を断行し、ポンドを切り下げて管理通貨制度に移行した。翌32年3月には保護関税法を制定して一律10%の輸入関税を導入し、国内産業を保護し、輸出の増大をはかった。さらに1932年7~8月にカナダのオタワで<大英>帝国内の自治領(ドミニオン)を招集して連邦経済会議を開催し、帝国内部で相互に輸出入関税率を優遇し合う特恵制度を導入した。これらの世界恐慌に対する対応によって、<英国>は1840年代末以来、一貫して維持してきた自由貿易主義をやめ、保護関税政策に転換した。
オタワ会議で成立した輸出入に関する特恵で結びついた関税ブロックを保管する体制として、スターリング=ブロックが設定された。スターリング=ブロックは、国際金本位制の代わりにポンドを基軸通貨とする国際金融体制であり、帝国経済特恵体制とスターリング圏によって、<英>本国を中心とする経済ブロックが構築された。このブロック経済政策は、フランスのフラン経済圏や<米国>のドル経済圏とともに、それぞれが閉鎖的な経済ブロックをつくって生き残ろうとするものであり、世界経済全体での輸出入を停滞させ、世界経済はさらに落ち込むこととなった。」
https://www.y-history.net/appendix/wh1504-023.html
⇒まだ、私は、納得のいく典拠を見つけることができてはいないのですが、典拠の付いていない「注62」からすると、民政党の政策と、英挙国一致内閣の政策とは、緊縮財政では同じ、金解禁の是非では分かれる、ということ・・ちなみに、政友会の政策はその逆・・のようですが、後は、英挙国一致内閣も民政党同様、軍縮志向であったのかどうか、ですね。
緊縮財政なら、当然、軍縮志向、ということになりそうですが、英挙国一致内閣の場合、「政府の実権は枢密院議長ボールドウィンや大蔵大臣ネヴィル=チェンバレンなど保守党指導者に握られていた」(上掲)ので、微妙です。(太田)
1930年代のブロック経済を主導するイギリスの特恵関税制度によって、日本は世界経済から排除される。
延(ひ)いては戦争に至る。
渡辺はこのような見方を「誤解」と退ける。
<しかし、本当に、>1930年代においても日本は領土的拡張ではなく、経済的発展が可能だったのだろうか。・・・」(162~163)
⇒文章としても、「領土的拡張を伴わない、経済的発展」でしょうが、そもそも、日本は、満州事変以降、経済目的ではなく、・・結果としてオーバーラップする部分はあったけれど、・・安全保障/アジア解放目的で領土的拡張ならぬ軍事的進出を行ったのですから、井上のこのくだりは二重におかしい、と私は思います。
但し、井上が、渡辺の主張に疑義を呈していることに関しては、私は井上の方持ちです。
英国(やフランスの、更には、米国の事実上の)ブロック経済化が、英仏米等の諸大国においてと同様、日本において、そのより大きな「経済的発展」を阻害したことは間違いないからです。
だからこそ、米国による、事実上の第二次世界大戦参戦宣言と見なすこともできるところの、英国との間で調印された、1941年8月の大西洋憲章において、米国は、英国に、「自由貿易の拡大」「経済協力の発展」、すなわち、ブロック経済の解消、を約束させる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%86%B2%E7%AB%A0 前掲
ことを余儀なくさせられ、その結果、米国と英国は、日本の対米英戦開始前に、日本に、その戦争目的の一つを前倒し的に達成させる羽目になったわけです。(太田)
(続く)