太田述正コラム#10065(2018.9.12)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その47)>(2018.12.28公開)
「この<岩淵の>論稿はもう一つ別の次元の対抗関係を指摘する。
それは軍部内の「合法派」と「非合法派」の対立である。
「合法派」は合法手段によって国家革新の実現を図る。
対する「非合法派」はテロやクーデタなどの非合法手段による国家革新の実現をめざす。・・・
同論稿によれば、「非合法派」を陰で操っていたのは北一輝たちだった。
⇒陸軍の上層部の大部分は、一貫して、島津斉彬コンセンサス信奉者達であったことから、(海軍のことは捨象しますが、)軍部内に(テロやクーデタを否定するという意味での)「合法派」など基本的に存在しなかった、というのが私の見解である(コラム#10042)ことはご承知の通りです。(太田)
革新運動対自由主義思想と「合法派」対「非合法派」の対立は、自由主義思想と「合法派」の連携によって「非合法派」の抑制の可能性を示唆する。
この論稿によれば、自由主義陣営と「合法派」は「朝飯会」をとおして相互接近したという。
「朝飯会」とは内務省の官僚出身の貴族院議員伊沢多喜男<(注72)>(いざわたきお)を中心とする政治グループを指す。
(注72)井澤多喜男(1869~1949年)。「信濃国高遠藩士・・・の子」で三高、東大法。「一旦愛知県属となり<2年後に>内務省に入省する。・・・警視総監に栄進した・・・が内務大臣の大浦兼武が失脚した大浦事件に巻き込まれる形で辞職。直後の1916年10月5日に貴族院の勅選議員に勅任された。・・・衆議院に席を持つことがなかった伊澤は政党の党員となることはなかったものの、自ら非政友会系政党(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)の支持者である事を公言して憚らず、・・・加藤高明内閣が成立すると台湾総督に任じられた。大正15年(1926年)には濱口雄幸の支援を受けて東京市長に選出されている。・・・
出身母体である内務省内には長年にわたって隠然とした影響力を持ちつづけ・・・後藤文夫と勢力を二分し・・・後藤の政党政治を骨抜きにしようとする画策には断固反対し、天皇機関説事件に絡んだ国体明徴運動に対しては厳しい批判を行った。このため後藤系の革新官僚や軍部からは旧体制の象徴的な存在として目されることになり、二・二六事件をはじめとする青年将校による尊皇討奸の計画においても襲撃候補者として度々名前が挙がったが、閣僚経験のない伊澤を襲っても社会的な反響は望めないとそのたびに見送られて命拾いをしている。逆に治安担当者として二・二六事件で襲われたのは当時内相だった後藤の方だった。
昭和10年(1935年)に内閣審議会委員となり、後に新体制運動にも関与するが、これもやがて後藤に主導権を奪われる。昭和13年(1938年)の国家総動員法の審議では、貴族院では数少ない反対票を投じている。昭和15年(1940年)11月には枢密顧問官に任命され、そのまま最後の顧問官の一人として枢密院の幕引きを行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%B2%A2%E5%A4%9A%E5%96%9C%E7%94%B7
主要な会員は、郡部では永田鉄山陸軍軍務局長、重臣層では元老西園寺の秘書の原田熊雄や内大臣秘書官長の木戸幸一だった。
⇒岩淵にせよ、岩淵の論稿を引用する井上にせよ、「朝飯会」のメンバーでもって、伊沢の思想傾向を推量しているようですが、伊沢が「中心」どころか、彼が「三菱から多額の資金を貰い受け」て「結成した・・・国維会」は、「成立には頭山満が尽力し・・・<そ>の力添えで広田<弘毅>が加入し・・・ここで広田は荒木貞夫・・・らの・・・軍人たちと結びつく<とともに、>・・・近衛文麿・・・と朝食を共にする仲ともなる<ところ、>この会の理論的指導者は安岡正篤」
https://books.google.co.jp/books?id=CpV4E6_AIOEC&pg=PA158&lpg=PA158&dq=%E4%BC%8A%E6%B2%A2%E5%A4%9A%E5%96%9C%E7%94%B7%EF%BC%9B%E6%9C%9D%E9%A3%AF%E4%BC%9A&source=bl&ots=k3HLT_uwf4&sig=11ucsVP229QjJEEHzQfzLrwiujQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjn7p7Do7XdAhUBU7wKHTrdAK4Q6AEwAXoECAkQAQ#v=onepage&q=%E4%BC%8A%E6%B2%A2%E5%A4%9A%E5%96%9C%E7%94%B7%EF%BC%9B%E6%9C%9D%E9%A3%AF%E4%BC%9A&f=false
というのですから、ここからは、伊沢は、あたかも、ゴリゴリの島津斉彬コンセンサス信奉者であるかのように見えます。
私見では、伊沢の交友関係や言動に一貫性はなく、例えば、彼の政治姿勢は、単に元同僚であった後藤と張り合っただけであったと考えれば平仄が合うのであり、伊沢自身は思想的には無色に近い人物だったのではないでしょうか。(太田)
そこへ統制経済体制による国家社会主義を志向する革新官僚も参加する。
「朝飯会」は、伊沢が重臣層と陸軍の一部、革新官僚を結びつけて、合法的に国家革新をめざす組織横断的な政治グループだった。
⇒エー、ウソでしょ、と私は申し上げているわけです。(太田)
北らの国家社会主義者の影響を受ける「非合法派」は、軍部の永田グループが「国家の革新を阻止」しようとしているように映った。
「非合法派」は反撃に出る。
それが相沢事件だった。・・・
<他方で、1935>年、現地軍は中国の華北五省を蒋介石の国民政府から政治的に分離して「親日」地帯化する華北分離工作を始める。
修復に向かっていた日中関係は悪化へと反転する。」(172~174)
(続く)