太田述正コラム#713(2005.5.5)
<日中対話用メモ(その5)> 
 (前回のコラム#712に、注を一つ増やす等手を入れてHPに再掲載してあり
ます。)

 (4)日本がつくった中共の現在
  ア 始めに
 日本にとって支那は、安全保障上はもちろんのこと、19世紀末以降先の大戦における敗戦まで、日本の貿易相手ないし投資先として経済上も枢要な存在であり続けました。(支那が最近、再び経済面で日本にとって枢要な存在となったのはご承知のとおりです。)
 このような安全保障面や経済面での密接な関わりにもかかわらず、この間、日本は支那から殆ど影響を受けていません。逆に日本は支那に決定的な影響を及ぼしてきました。
 一つの例を挙げてみましょう。
 日本は欧米にキャッチアップする過程で、それまで日本には対応する言葉がなかったところの欧米の言葉を翻訳するにあたって、漢語の意味を変えたり新しい漢語を造語したりしたりして対処しました(注12)。

  • (注12)漢語の意味を変えた例:republicの訳語として「共和」があてられたが、「共和」という漢語は古代中国の斉の王室が乱れたとき、大臣たちの合議で政治を運営したことに由来しており、王室の存在を前提にした語であったにもかからわず、王室抜きの政治を指す言葉として転用された。造語の例:「哲学」・「自由」・「契約/義務」・「化学」。

 和語による造語で対処しなかったのは、漢語の造語力の方がはるかに勝っていたからです。
 その結果、名詞を余り用いなかった日本語が、名詞を多用する欧米的な言語へと変容したのですが、忘れられがちなのは、日本で意味を変えられ、あるいは造語された新しい漢語が大量に支那に輸出され、採用されたことです。
 現在の支那の思想・政治・法律・自然科学等に関する言葉の大部分は和製漢語であると言っても過言ではありません。
 (以上、http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/kindaika.htm(5月5日アクセス)による。)
 このような例は枚挙にいとまがありませんが、ここでは、日本が20世紀において支那の政治・経済に与えた決定的影響について、中国共産党の誕生・共産党の権力奪取・中共の開放政策の開始・中共の高度成長の継続、の四点に焦点をしぼって振り返ってみたいと思います。

  イ 5.4運動:共産党の誕生へ
 5.4運動については、このシリーズ等で既にたびたび登場しました。この5.4運動を引き起こす原因をつくったのは、日本です。
 5.4運動が始まった1919年5月4日は「五四中国青年節」として、1949年10月1日の中共(中華人民共和国)が建国された日であるところの「国慶節」とともに、毎年中共で盛大に祝われています。
 今年は、この日に再び反日行動が行われるのではないか、と懸念されていましたが、中共政府にその気がなかったので、当然のことながら、何も起こりませんでした。
 5.4運動は、日本を主たるターゲットとして行われた排外運動であるとともに、支那の自己覚醒運動でもありましたが、その元を辿れば1915年1月の日本の対華(支)21カ条要求(Twenty-one Demands)に行き着きます。
 1914年に第一次大戦が勃発すると、日英同盟下にあった日本は、連合国側に立ってドイツに宣戦布告し、中国にあったドイツの租借地、山東省の膠州(Kiaochow)湾周辺(青島等)を奪取しました。
 その上で、日本が中華民国政府(袁世凱)に突きつけたのが「対華21カ条要求」であり、その内容は、第一にドイツの権益の譲り受けであり、第二に満蒙権益の確保であり、第三に支那全体の保護国化(中央政府への日本人顧問招聘や警察の「日支合同」、華中鉄道敷設権獲得)でした。
 これらの要求は、途方もなく非常識なものであったように思われるかもしれません。
 しかし、これまで指摘してきたように、当時の支那は日本に比べて政治・経済等の面で比較にならないほどの後進国であり、中央政府がなきに等しく各地の軍閥等の勢力が抗争を続けているという点でも、民衆の民度の点でも、文字通りのフェイルドステートだったのです。
 そうだとすれば、安全保障上も経済上も切っても切り離せない関係にあった隣国たる当時の大国日本が、支那を保護国化しようとしたことは、まことにやむを得ないことであった、と私は思います(注13)。

  • (注13)この時の日本の首相が、維新の志士にして日本初の政党内閣の首相にして早稲田大学の創立者である大隈重信であった(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1。5月4日アクセス)こと、かつまた大正デモクラシーの旗手たる吉野作造が、「対華21カ条要求」について、「帝国の立場から見れば、大体に於て最少限度の要求である」と述べている(コラム#230)こと、が示しているように、21カ条要求は、当時の日本の有識者の広汎なコンセンサスを反映していた。

 21カ条要求の結果はどうなったでしょうか。
 米国が「第三」に反対したため日本は支那全体の保護国化はあきらめますが、「第一」と「第二」は中華民国政府に受諾させ、同年5月に同政府との間で、第一に係る「山東省に関する条約」と第二に係る「南満洲及東部内蒙古に関する条約」が締結されます。
 ここから、21カ条要求は、米国の「第三」への反対を除き、欧米諸国に全面的に受け入れられていたことが分かります。つまり、欧米列強は21カ条要求を、決して非常識な要求であるとは考えていなかった、ということです。 その後、1922年、(支那についての取り決めを含んだ)ワシントン条約の締結によって、フェイルドステートたる支那の列強による共同管理体制が確立した、との判断の下、日本は支那に対する善意の表明として膠州湾に係る租借権を放棄し、爾後日本はもっぱら、満蒙の権益の維持だけを追求することになるのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://www.answers.com/topic/twenty-one-demands?hl=may&hl=fourth&hl=movement、及びhttp://64.233.179.104/search?q=cache:qNP2Hnjl3nQJ:www.waseda-coe-cas.jp/symposium/pdf0412/nishimura0412.pdf(どちらも5月5日アクセス)、並びに考え方は異なるがhttp://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050425_syufuku/index1.html(4月27日アクセス)による。)
 
(続)