太田述正コラム#10067(2018.9.13)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その48)>(2018.12.29公開)
「・・・しかし「非合法派」の計画は失敗<し、1936年の>・・・二・二六事件は鎮圧される。・・・
永田<鉄山>を失った「合法派」は、自由陣営との連携を断ち切って、自立するようになる。
⇒二・二六事件は、当時、事実上の参謀総長であったところの、杉山元参謀次長による事実上のやらせであって、その目的は、(一)陸軍内の島津斉彬コンセンサス信奉者達中の中継ぎの指導者達であった、荒木と真崎、と共に、その他の重鎮達を、事件の「責任」を取らせて一斉に引退に追い込むことで自らの序列を決定的に高めると共に、(二)同事件の鎮圧に最強硬の姿勢で臨んで見せることで昭和天皇の絶対的信認を得て爾後の自分の行動のフリーハンドを得ることであった、との私見(コラム#10042)の方が、この井上説よりもはるかに説得力がある、と私には思えるのですが・・。(太田)
その現われの一つが二・二六事件後に成立した広田(弘毅)内閣における軍部大臣現役武官制の復活だった。・・・
⇒これは、上の(一)の一環であって、「彼らの陸相としての復活を許さないため」だった、と解するわけです。
もっとも、「」内自体は通説です。(太田)
二・二六事件によって、「非合法派」が駆逐されたことは、対立の図式が再編されて、「合法派」対自由主義陣営の対立が健在化することを示唆している。・・・
宇垣内閣問題の帰趨は、この新たな対立図式のなかで理解できる。・・・
元老西園寺を含む・・・自由主義陣営・・・は切り札の宇垣一成を首相に推す。・・・
<しかし、>陸軍は三長官(参謀総長・陸相・教育総監)会議の推薦がないことを楯に陸相を出さ<ず、宇垣は組閣の断念に追い込まれた。>・・・
陸軍の主張は辻褄が合わなかった。
なぜならば前年の議会で広田首相が陸相に三長官会議の推薦を経ることなく、「大命を受けました者が任意奏薦して宜しい」旨、答えているからである。
広田内閣の下での軍部大臣現役武官制と首相による陸相の任意奏薦は、軍部「合法派」の要求によるものだった。・・・
⇒杉山元が、次は近衛首相、という想定(後で説明)の下、そのように広田に答弁させた、ということでしょう。
銘記すべきは、軍部大臣資格に係る法規の方は改正されたけれど、三長官会議に係る法規は改正されなかったであろう点です。
内閣としての見解表明ではないところの、(他の閣僚達と同格であった当時の)首相としての見解表明、になど拘束力はありますまい。(太田)
<しかし、結局は、>つぎの首相は「合法派」の想定どおり、林銑十郎になった。・・・」(174~177)
⇒ここは、私は、杉山が、参謀次長の時に自ら「仕組んだ」日支戦争勃発を、その「予定通り」の勃発後に予想されるところの天皇・重臣達・外務省等・政党勢力、等による停戦努力、を「妨害」する目的で陸軍大臣に就任するつもり(コラム#10042)でいて、その時、首相には、広田よりも、自分にとって、更にロボット度の高い、近衛文麿を据えるつもりだったのに、1937年2月に、1931年の三月事件の時に自分を裏切った宇垣を首相に据えようとする、予想外の動きがあったので、石原莞爾等を使って、この動きを潰した上で、暫時、冷却期間を置くために、林銑十郎を首相に、中村孝太郎を陸相に、据えた・・その上で、林は4か月で、中村は実にわずか1週間で、辞任
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
「させた」・・、と見ているところです。
一事が万事、昭和戦前史の、あらゆる諸重要事件の現場に居合わせていた杉山こそ、その全事件の「真犯人」であったと目星をつけた上で、これらの諸重要事件を繋ぎ合わせて俯瞰した時に、初めて、この時期の全貌が明らかになってくる、と、私は言いたいのです。(太田)
(続く)