太田述正コラム#10071(2018.9.15)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その50)>(2018.12.31公開)
「林(銑十郎)内閣の総辞職後、1937(昭和12)年6月4日に近衛(文麿)内閣が成立する。
それから約1ヵ月後の7月7日、・・・盧溝橋事件・・・が起き・・・<それが>日中全面戦争へと拡大する。・・・
日中戦争の回避可能性を前提とする戦争調査会は、「なぜ起きたのか」よりも「なぜ起きた戦争を早期に終結できなかったのか」の方に強い関心を持った。・・・
日中戦争は両国がそれぞれの事情から望まなかったにもかかわらず、長期化した。
⇒このような認識はそもそも誤りである、と私は指摘しているわけです。
当時、陸軍は、杉山元が牛耳るところとなっており、首相を含む内閣も、概ね、陸軍のコントロール下にあり、その杉山が日支戦争の拡大を図り続けていました。
つまり、仮に中国国民党政府の側が和平を望んでいたとしても・・後述するように、私はそう考えていません・・、日本側が戦争の継続、拡大を望んでいる以上、「日中戦争を早期に終結」することなど不可能だったのです。(太田)
日本側からすれば、満州国を固めて対ソ連戦に備えるには中国と事を構えるのは不得策だった。
⇒ここが、戦争調査会の委員達の過半の認識なのか、井上の認識なのか、定かではありませんが、前者または後者に、あたかも、1933年(昭和8年)6月の陸軍全幕僚会議における、「皇道派」の荒木貞夫陸相や小畑敏四郎参謀本部第3部長らのスタンス(コラム#10042)が憑依したような感があります。
しかし、前者または後者は、その後、陸軍における、「皇道派」ならぬ、島津斉彬コンセンサス信奉者のリーダーとなった杉山元が、形の上では、この時の、「統制派」の永田鉄山参謀本部第2部長のスタンス(同上)を採用するに至っていた(同上)こと・・私見です・・に気づいていないわけです。(太田)
蒋介石の国民政府は共産党との内戦に備える必要があった。
⇒その通りではあるけれど、蒋介石は、中国共産党との内戦を、日支戦争「勝利」後まで凍結せざるを得ない立場だったという事情から、前者または後者は目を逸らせています。
蒋介石は、スターリンの仕組んだところの、国共合作/日支戦争路線、を追求することを条件に、スターリンから援助してもらっていたのですからね。
もとより、英米からの支援も増えてはいくけれど、英米両国とも、その援助は、日支戦争の継続が条件でした。(典拠省略)(太田)
それゆえ両国は戦争下たえず和平の機会をうかがった。・・・
⇒よって、日本政府も中国国民党政府も、たえず和平の機会をうかがうポーズをとっただけだった、と見切った方がいいのです。(太田)
<さて、>近衛首相の現地解決主義による事態の収拾方針にもかかわらず、戦線は拡大し、1937年12月には首都南京が陥落する。
翌年1月16日、近衛首相が「国民政府を対手とせず」との声明を発表した<(同上)>ことによって、戦争の早期解決の見込みは失われる。
⇒そう近衛に言わせたのも、当然、当時、陸相であった杉山元でしょう。(太田)
近衛は局面の打開を求めて、この年の半ばに内閣を改造する。
外相は宇垣、陸相は板垣征四郎、蔵相は池田成彬<(注74)>(しげあき)がそれぞれ就任した。」(180~182)
(注74)1867~1950年。「出羽国(現在の山形県米沢市)に米沢藩士・・・の長男として生まれる。」慶大(理財)卒、5年間米遊学。「三井合名会社筆頭常務理事(事実上の三井財閥総帥)・・・日本銀行総裁、大蔵大臣兼商工大臣、内閣参議(第一次近衛内閣・平沼内閣・第2次近衛内閣)、枢密顧問官(東條内閣)・・・を歴任。・・・
留学経験からアメリカと戦争すべきではないとし、太平洋戦争に反対し東条英機と対峙した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%88%90%E5%BD%AC
(続く)