太田述正コラム#10073(2018.9.16)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その51)>(2019.1.1公開)

「宇垣の組閣にあれほど反対した陸軍がなぜ宇垣の外相就任に反対しなかったのか。
 陸軍内に対ソ戦優先の観点から日中戦争の早期解決を求める勢力がいたからである。
 彼らは宇垣が日中戦争を解決することに期待した。

⇒外相人事は、当然のことながら陸軍の人事ではないのですから、陸軍でそれに注文を付けられるのは、(対外的)政治活動のできる陸軍大臣だけであるはずなので、井上は意味不明なことを記していると言いたくなりますが、この外相すげかえ、要は、杉山が、首相の近衛と外相の広田という、自分の二人のロボットに言い含めて、実行させたものでしょう。
 杉山の狙いは、杉山の布石のおかげで、日支戦争の継続・拡大路線が政府部内においては概ね定着したことから、和平を放棄したわけではない、という印象を振りまくことで、世間・・日本の陸軍外の人々、及び、関係外国諸政府・・の目を欺くところにあったと思われます。
 宇垣もとんだピエロ役を演じさせられたものです。(太田)

 宇垣の側近のひとり林弥三吉<(注75)中将>・・宇垣からの直接の聴取を求めたところ叶わず、代わりに・・・林・・・の話を聞くことになった<もの>・・が戦争調査会で語ったところによれば、宇垣<の和平>工作が成功するか否かはタイミングと和平条件次第だった。

 (注75)はやしやさきち(1876~1948年)。「石川県出身。」陸士、陸大。「山県有朋元帥副官・・・軍務局軍事課長・・・第4師団長、東京警備司令官を歴任し、1932年(昭和7年)2月に待命、翌月、予備役に編入された。 ・・・
 長男 林敬三(内務官僚、<自衛隊の[初代]>統合幕僚会議議長)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%BC%A5%E4%B8%89%E5%90%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%95%AC%E4%B8%89 ([]内)

⇒井上は、宇垣がどうして、戦争調査会に対する証言を拒んだのか、不思議に思わなかったのでしょうか。
 私の想像は、彼が、当時の杉山陸相から、口外絶対無用を約束させられた上で、その、日支戦争継続・拡大の狙いを打ち明けられていたため、その約束を・・終戦後自裁した杉山の思いも汲んで・・守らざるをえなかったため、というものです。
 「上原勇作を中心とする九州閥には「蝙蝠のような男」と揶揄された。田中義一の腹心として陸相に抜擢されたにもかかわらず、自身の派閥強化のため反長州閥的な行動(予備役入りや陸大からの排除)をと<り、>・・・曖昧な表現を多用し、・・・『昭和天皇独白録』では「この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ」と酷評されていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90
宇垣でしたが、仮に私の上記想像が正しければ、晩年の宇垣は立派だったとも言えそうです。
 私としては、更に想像を逞しくして、この宇垣(ともちろん、杉山、東條ら)に敬意を表し、杉山の真意を知っていた旧陸軍高官達は、戦後、そのことについて沈黙を守ったのだ、と思いたいところです。(太田)

 タイミングとは漢口攻略作戦と同時に和平工作を本格化させるということである。
 林は言う。
 「戦役というものは先方の痛い所を押えているうちに話をつけねば、終わらぬものである」。
 軍事的な圧力をかけなくては、相手は和平に応じてこない。
 林によれば宇垣は、漢口作戦の一方で和平を求めた。」(175、182)

⇒林弥三吉が宇垣の側近だったという触れ込みですが、少なくとも宇垣の外相時代における側近だったとは到底思えない、昔の名前で出ていますチックな、(かつて永田鉄山らが唱えていた)支那一撃論の開陳ですねえ。(太田)

(続く)