太田述正コラム#10077(2018.9.18)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その53)>(2019.1.3公開)
「・・・<とはいえ、>宇垣は和平工作をあきらめ<たわけでは>なかった。・・・
しかし閣内の状況は悪化していた。
宇垣の支持者だったはずの池田蔵相が慎重姿勢に転じる。・・・
<そう戦争調査会で語った>池田は・・・もう一つ・・・気がかりな証言をしている。
池田の見るところ、板垣陸相は「平和論者」だった。
ところが「次官以下のところに非常な強硬論者があって、それが板垣君を引ずっていたように自分は思う」<、と>。・・・
9月30日、宇垣は辞任する。
石射は日記に記す。
「近衛と其内閣に愛想をつかしたのが深因であろう」。
石射は宇垣工作の失敗の原因を的確に指摘している。
和平へのもっとも大きなチャンスを逃した近衛内閣は、日中戦争を解決することなく、翌<1939(昭和14)>年1月4日、総辞職する。
⇒「大杉一雄<(注76)>は、・・・『日中十五年戦争史』<の中で、>・・・宇垣外交を高く評価するがゆえに、外相を投げ出したことを「無責任」と厳しく批判するとともに、真意のはっきりしない突然の外相辞任を昭和史の謎の一つとしている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90
ところ、私に言わせれば、石射も大杉も、どちらも間違っているけれど、大杉の方がまだ石射よりも評価できます。
(注76)「1925年、北海道生まれ。1952年、東京大学経済学部経済学科卒業。日本開発銀行(現日本政策投資銀行)に勤務し(この間アジア経済研究所に出向)」
http://www.hmv.co.jp/artist_%E5%A4%A7%E6%9D%89%E4%B8%80%E9%9B%84_200000000503232/biography/
というのも、私は、宇垣が短期間で辞任したのは、彼は、杉山から真意を明かされた時点で辞任したかったのを、それでは、辞任の理由の説明が不可能であったこともあり、いやいやピエロ役を務めた上で、石射のような「誤解」をしてくれる人々が出現するであろう時期まで辞任を引き延ばした上で辞任したということだ、と見ているからです。
この私の想像が正しいかどうかは、杉山らの真意と同様、永久に結論は出ないでしょうが、私は、この自分の想像の正しさを信じています。
この際、以前から温めてきた話を付言しておきます。
それは、戦前の石射や戦後の大杉のような知識人達が、宇垣の辞任理由が分からなかったのはどうしてか、についてです。
それは、どうして戦前や戦後の知識人達が、杉山元を理解できなかったのか、と同じことである、と私は思っているのです。
そして、その原因については、(私が理解できた・・と少なくとも自認している・・のは、「軍事」官庁勤務経験があったからこそですが、そういう経験がない)一般の知識人達と、戦前において、日本の最高の知性が集中していた陸軍の宇垣や杉山といった首脳達、との間では、コミュニケーションが成立しないほどの知的ギャップがあったからではないか、と。(太田)
近衛内閣のあと、平沼(騏一郎)・阿部(信行)・米内(光政)の三つの短命内閣がつづく。
いずれの内閣も日中戦争の自力解決ができなかった。
⇒もはや、日支戦争の和平の目は完全になくなったという見極めが、在支の杉山元にはできたことから、彼が、リモートで、近衛の、政治家としてはもとより、人間としてすらの未熟さが完全に露見する前に、一旦、近衛に首相を辞任させたのであろう、と私は踏んでいます。(太田)
1940(昭和15)年7月22日、ふたたび近衛が首相の座に就く。」(187、189)
(続く)