太田述正コラム#10079(2018.9.19)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その54)>(2019.1.4公開)

 「第二次近衛内閣は国策の大きな転換を図る。
 大きな転換とは<1940>年9月27日の日独伊三国同盟と仏印(フランス領インドシナ)進駐(同年9月22日北部仏印進駐、翌年6月25日南部仏印進駐)である。
 近衛内閣の主観的な意図は、三国同盟と仏印進駐による日中戦争の終結だった。
 別の言い方をすれば、近衛内閣は、日中戦争の自力解決が困難に陥るなかで、欧州国際情勢に依存しながら、間接的に中国に影響を及ぼすことで、和平の実現をめざした。・・・
 三国同盟<締結に>は・・・もう一つの意図があった。・・・
 これまでの研究によれば、近衛内閣は三国同盟それ自体に日中戦争の解決を託したのではなかった。
 三国同盟の圧力によって、ソ連との外交関係を改善することが目的だった。
 ソ連はドイツと不可侵条約を結んでいる。
 三国同盟と日ソ外交関係の改善は両立する。
 日ソの外交関係の改善は中国共産党に影響を与える。
 中国の抗日が強いのは国民党と共産党が合作しているからだった。
 日ソ関係の改善は、ソ連から事実上の支持を受けていた中国共産党の抗日姿勢の抑制をもたらし、蒋介石を対日和平へ向かわせる。
 近衛内閣はそう考えた。」(189~190)

⇒井上が、何に拠って何を言おうと、三国同盟締結に係る1940(昭和15)年「9月19日の御前会議で原嘉道枢密院議長は「・・・米国は最近、英国に代り東亜の番人を以て任じ、日本に対し圧迫を加えているが、なお日本を独伊側に加入せしめないため、かなり手控えているだろう。然るにこの条約発表により、日本の態度が明白となれば、日本に対する圧迫を強化し、極力蒋介石を援助して日本の事変遂行を妨ぐるだろうし、又、独伊に対し宣戦していない米国は、日本に対しても経済圧迫を加え、日本に対し石油、鉄を禁輸する共に、日本より物資を購入せず、長期にわたり日本を疲弊、戦争に堪えざるに至らしむる如く計るだろうと考える…」と質問した」(注77)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
ところ、そのように事態を展開させることこそ、杉山元の狙いだった、というのが私の見解です。

 (注77)日独伊三国同盟が締結されたのは、1940年(昭和15年)9月27日。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F

 その結果、日本は、東南アジアにおいて、資源を確保せざるをえず、それに英国が立ちはだかるであろうことから、対英戦争を敢行せざるをえず(注78)、その結果として、アジア解放がなる、と。

 (注78)インドネシアを領有していたオランダは1940年5月15日、インドシナを領有していたフランスは同年6月22日、に、既にドイツに降伏していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
 残るは、マレー半島、ビルマ、インドを領有していた英国だけだった。

 もとより、杉山としては、対英のみ開戦を追求するつもりであったと想像されるところ、彼には、対英米戦を敢行せざるをえなくなったとしても、それも甘受する覚悟であったのではないでしょうか。
 なお、近衛は、第二次、第三次の内閣の時も、節目毎に、杉山ないしは杉山の意を受けた者の指示を受けて首相としての言動を行ったと私は見ているわけですが、杉山は、自分の真意をそのまま近衛に伝えていたとは思いません。
 そうとでも考えなければ、いかに愚かな近衛とて、彼が、見当違いの終戦工作をしたり、戦犯として裁かれることを予想しなかったりしたこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
を説明できないからです。(太田) 

(続く)