太田述正コラム#10081(2018.9.20)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その55)>(2019.1.5公開)
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[原嘉道について]
どうして、原嘉道は杉山元の真意を「もう少しで読めた」のか、を解明すべく、原について少し調べてみた。↓
原嘉道(はら よしみち(かどう)。1867~1944)は、「信濃国高井郡小山村(現在の長野県須坂市小山)に・・・生まれる。父は旧須坂藩<(注79)>の足軽小頭を務めたが、もともとは・・・庄屋格の農家の出である。・・・大学予備門を経て、旧制第一高等学校、1890年(明治23年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部を首席で卒業する。・・・
(注79)「須坂藩の藩祖は、堀直政の四男・堀直重である。この堀氏は、堀家の家老であった奥田直政に堀姓を与えたことが起源であり、豊臣秀吉の重臣であった堀秀政の一門家老ではあるが、その直系子孫ではない。
直重は早くから徳川家に近づき、徳川秀忠に献身的に仕えたことから、外様大名でありながら譜代大名に準じる待遇を求めたが入れられなかった。当初は1万2000石で立藩したが、第2代堀直升は下総国矢作2000石のうち、1000石を次弟の堀直昭に、三弟と末弟にそれぞれ500石を分知したため、須坂藩は1万石となった。
歴代藩主の多くが大番頭や大坂・駿府・二条城の加番、伏見奉行などの職についている。・・・
幕末の藩主・第13代堀直虎は、・・・洋式軍制を導入する。幕政にあっては、維新の中にあり大番頭等を経て若年寄兼外国総奉行に任じられ、慶応4年(1868年)1月、徳川慶喜に自分の意見が聞き入られなかったため、江戸城中で諌死する。勝海舟は、乱心して自害したとしている。
その後須坂藩は従来の佐幕の方針を転換し、小山・結城、北越、会津に出兵。信濃国内の諸藩の中でも特に大勢の藩兵を送り、新政府への恭順の姿勢を明確にした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E5%9D%82%E8%97%A9
⇒「注79」のようなユニークな小藩出身であったことも与ってか、弁護士志望にもかかわらず、いや、弁護士志望だったので(日本の維新後の諸法はドイツ法の翻案であったことから国内的には殆ど役に立たないけれど)手続き的正義を追求する英法、しかも、渉外弁護士志望だったので国際取引等においてはその知識が生きる英法、を学んだと思われる原は、それだけではなく、稀有なことだが、英法の勉強を通じて、アングロサクソンの物の考え方を理解するに至った、と想像される。(太田)
帝国大学在学時には代言人(弁護士)志望であったが、開業資金が無いので農商務省に入省する・・・が、1893年(明治26年)に農商務省を退官している。・・・福島県富国炭坑事件や長崎県端島炭坑事件鉱山関連の訴訟を手がけ、民事訴訟の花形弁護士として活躍した。・・・1911年(明治44年)東京弁護士会長に就任し3期務めた他、第一東京弁護士会会長を2期務めた。この間、三井銀行、三菱銀行、興業銀行、横浜正金銀行などの法律顧問や三井信託取締役、三井報徳会会長をつとめた。さらに東京帝国大学、早稲田大学、中央大学、学習院大学で教壇に立ち商法を講義した。1930年(昭和5年)法相辞任後、中央大学学長として「法律の中大」の基礎を作るなど法学者として尽力した。・・・
1923年(大正12年)には、司法界の巨頭であり、観念右翼として知られていた平沼騏一郎の主催する国本社に参加、理事に就任する。
⇒国本社(コラム#10042)での活動を通じて、原は、島津斉彬コンセンサス信奉者になったと見てよかろう。
但し、前杉山元・島津斉彬コンセンサス信奉者に・・。(太田)
1927年(昭和2年)田中義一内閣の司法大臣として入閣する。法相としては、1928年(昭和3年)治安維持法に基づき日本共産党の一斉検挙、すなわち三・一五事件を実施した他、翌1929年(昭和4年)4月16日にも300名余の共産党員を検挙している。また、1928年思想検事を設置、治安維持法を改正し国体変革に対しては最高刑を死刑とする修正条項を追加した。
⇒島津斉彬コンセンサス信奉者が、マルクスレーニン主義者達を弾圧するのは当然だ。(太田)
1931年(昭和6年)枢密顧問官となる。1938年(昭和13年)枢密院副議長。1939年(昭和14年)第1次近衛文麿内閣が総辞職し、枢密院議長平沼騏一郎に大命降下となり、後任の枢密院議長には近衛が就任した。1940年(昭和15年)6月近衛が新体制運動のため、枢府を退くと、原は後任として枢密院議長に就任した。同年9月日独伊三国軍事同盟締結について枢密院で審議された際、三国同盟参加に反対、外務大臣の松岡洋右を批判している。
⇒土地勘なくしてアングロサクソンを理解していたところの、前杉山・島津斉彬コンセンサス信奉者として、原が三国同盟締結に反対したのも当然であり、米国の十分過ぎる土地勘があったはずの松岡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
が、杉山らに踊らされて三国同盟締結に血道を上げたのは、この2人の間に、著しい知的能力差があったことを示している。(太田)
1941年(昭和16年)6月独ソ戦が勃発すると7月2日の御前会議において松岡外相とともに対ソ開戦を主張した。
⇒前杉山・島津斉彬コンセンサス信奉者たる原の面目躍如といったところだ。(太田)
9月6日の御前会議では、軍部の作成した帝国国策遂行要領を審議し、原は「外交交渉が主であるのか、戦争準備完整が主であるのか、伺いたい」「この要綱案では戦争が主で、外交が従のように見えるが本当は逆ではないのか」と発言した。昭和天皇は、原の発言を受けて、明治天皇の和歌「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」を詠み「私は故明治大帝の平和愛好の御精神を紹述しようと努めている」と発言した。
原は内大臣木戸幸一と通じて岡田啓介、米内光政ら重臣たちと連絡を取り戦争回避に努力したが、その努力も虚しく12月8日、日本は太平洋戦争に突入した。・・・
⇒縄文モードへの転換を示唆し、その転換成就を待ち望んでいたところの、昭和天皇が、大元帥として、そして統帥権者として、最終的に、対英米戦争開始を認めたのは、杉山、そして杉山の有能なロボットである東條が、昭和天皇の信頼を確立していたからこそだったが、だからこそ、原の抵抗は成功しなかったわけだ。(太田)
枢密院議長在職中に死去。77歳。死に際し勅使が派遣され、特旨をもって華族に列せられ、男爵位が追贈された。戦後、華族制度は廃止されるが、原は日本最後の華族となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%98%89%E9%81%93
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(続く)