太田述正コラム#10083(2018.9.21)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その56)>(2019.1.6公開)
「<しかし、結局、>日米戦争になった。
分岐点が第二次近衛内閣の国策の転換にあったことは、戦争調査会にとっても明らかだった。
なかでも青木<得三>は南部仏印進駐を重大視している。
戦後に発行された近衛の手記を読んだ青木は、「近衛公の大変なお考えちがい」を見出す。
青木によれば、「当時陸軍においてはソ満国境でソ連に対して戦を挑もうと言う主張が非常に強くて、これを抑えることが困難になった。
そこで何とかしてそれを抑えようと思って、自分[近衛文麿]は仏印進駐に対して同意を表した」。・・・
5月23日の岡田菊三郎<(注80)>(1940年から陸軍省整備局戦備課長の任にあった)へのヒアリングの際<の>青木<の>質問<に対し、>・・・岡田<は、>・・・「これは露骨に言うと、そういう時期があった。
(注80)岡田菊三郎の整備課長後の軍歴については、「祭第15師団(師団長・山内正文中将)は、<インパール作戦において>、三師団の中で最も多い死傷者を出した。・・・<当時、>山内師団長を補佐した<のが>参謀長岡田菊三郎少将」
http://www.sky.sannet.ne.jp/ken-abe/rondan-2016-04.html
陸士30期で「終戦時・・・ 燃料本部附」
http://kitabatake.world.coocan.jp/rikukaigun38.html
くらいしか分からなかった。
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[当時の杉山元について]
「陸軍省戦備課が・・・<19>41年(昭和16年)3月、国力判断を示した。
判定したのは、元陸相荒木貞夫を岳父に持つ芝生(しばう)英夫少佐だった。
芝生は・・・南方武力行使は「困難」と判断されたが、岳父の示唆によって、開戦が可能になるように起案したという。
⇒芝生がそんな機密事項を「部外者」に漏らすとは考えにくいし、南方武力行使は荒木の現役時代の考えに反する、という2点から、この話には疑問符が付く。(太田)
しかし、岡田菊三郎戦備課長は、これを「物的国力は対米英長期戦の遂行に対し不安あるを免れない」と修正した。
この戦備課の報告は、陸軍内に衝撃を与え、参謀本部第二十班(戦争指導班)は3月22日、日誌に「南方武力行使など思いもよらずと云うべし」と記した。
しかし、日本が南部仏印に進駐し、米国が41年8月、対日石油禁輸の対抗措置をとると、避戦論は大きく後退する。
当時、陸軍<省軍事課長であった>岩畔豪雄大佐は、日米国力差に関するリポートをもとに避戦を説いて回っていた。
<この>リポートは、対米諜報活動に従事していた新庄健吉(しんじょうけんきち)陸軍主計大佐が作成したもので、日米の工業力の比率を常時維持するためには、「戦争の全期間を通して、米国の損害を100パーセントとし、日本側の損害は常に5パーセント以内に留めなければならない」と分析していた。
⇒当時参謀総長だった杉山は、この2つの、どちらも陸軍省部内における日米戦争最終的日本必敗論を承知の上で、しかも、南部仏印進駐が(原嘉道でさえ予想しえたところの)米国の石油輸出禁止を含む経済制裁を惹起し、対英米戦争を不可避ならしめることも承知の上で、以下のような、対英米戦開戦準備の仕上げを行った、ということになる。(太田)
参謀本部では、41年7月の人事で、作戦課長に服部卓四郎、兵站班長に辻政信が就いた<が、服部は、「1939年(昭和14年)5月に発生したノモンハン事件では関東軍作戦主任参謀として作戦の積極拡大を作戦参謀の辻政信とともに主張した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%8D%93%E5%9B%9B%E9%83%8E
人物だ>。・・・
しかも、時の作戦部長は、盧溝橋事件(37年7月)の際、陸軍省軍事課長として戦線拡大を主導した田中新一だった。
⇒辻は鉄砲玉といったところだが、服部は旧庄内藩地域出身(コラム#9902)であって島津斉彬コンセンサス信奉者であった可能性が高いし、田中新一は、杉山が陸軍大臣であった時の軍事課長であって、当時、杉山から、島津斉彬コンセンサス杉山バージョンを吹き込まれていた可能性が高いところ、こういった面々を参謀本部に集めたのは当然杉山というわけだ。
付言するが、岩畔は、「1937年(昭和12年)、・・・中佐<だった>が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したこと<から、>陸軍中野学校<が設立された>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%AD%A6%E6%A0%A1
という事実一つとっても、根っからの謀略の専門家であり、軍事課長当時の、上出の避戦活動も、陸軍が対英米戦一辺倒ではない、少なくとも岩畔は避戦志向である、との印象を昭和天皇や英米に与える・・岩畔を見せ金目的の日米交渉のために米国に派遣できる!・・のが目的であって、そう岩畔にさせたのは杉山だった、と私は見るに至っている。
岩畔が拠っていたのが、あくまでも「日米国力差に関するリポート」であって、「日米現有兵力差に関するリポート」ではなかった・・これも杉山がやらせたと見ているところの、戦備課の行ったものも「国力判断」だった!・・ことに注意が必要だろう。(太田)
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それはドイツの羽振りがあまり好くて、ソ連が潰れてしまうように印象づけられた時期があったと思う」。」(191~192)
⇒どうやら、岡田菊三郎は、整備課長以降、中央の要職を経験していないようであり、彼の証言も伝聞に基づくもので信頼性は高くないでしょう。
但し、近衛の言っていることと、岡田が言っていることが同じであることからすると、私には、これが、杉山が、近衛に教え込むと同時に流布させたところの嘘だった、と思えてなりません。(太田)
(続く)