太田述正コラム#10087(2018.9.23)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その58)>(2019.1.8公開)

 「<松岡は、>A級戦犯として囚われの身だったからである。・・・
 <他方、>戦争調査会はもっとも適切なインタビュー相手<である野村>を招くことができた。

⇒私からすれば・・太田コラム読者にとってもそうでしょうが・・、野村など話を聞いても何の役にも立たないことは明らかなわけですが・・。(太田)

 野村はワシントンに向かうに際して、陸軍省軍事課長岩畔豪雄大佐を同行させている。
 岩畔は前年の11月にふたりのカトリック神父(J・A・ウォルシュ、J.M・ドラウト)が来日したことを知っていた。
 ふたりの背後には、国交調整を模索するウォーカー郵務長官<(注82)>がいた。

 (注82)Frank Comerford Walker(1866~1959年)。ワシントン州のゴンザーガ大卒、、ノートルダム大で法学士、弁護士。戦後、民主党全国委員会委員長。
https://en.wikipedia.org/wiki/Frank_Comerford_Walker
 「1941年・・・3月8日 フランク・ウォーカー郵政長官の仲介による野村・ハルの秘密会談。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BA%A4%E6%B8%89

⇒ウォーカーが日米国交調整に関わったことは事実(「注82」)ですが、カトリック神父達の動きの背後にウォーカーがいた、という話は初耳です。
 そんなことはともかく、現時点で振り返ると、日本の対外政策を横井小楠コンセンサスによるものとだけ判断して、日米間を取り持とうとしたカトリック教会も、日本を黄禍と見て対米英開戦に追い込んで、ナチスドイツを対米参戦させるとともに、そのナチスドイツともども、日本も叩き潰そうと画策した米ローズベルト政権も、全て、帝国陸軍、ひいては日本政府の真意を読み間違えていた、とりわけ、米国政府は、物の見事に日本政府に利用された、ということになりますね。(太田)

 日本側はこのようなルートによる対米工作を「N工作」<(注83)>と称していた。

 (注83)「Nは野村駐米大使の頭文字から」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BA%A4%E6%B8%89 上掲

 アメリカ側は野村を「人格者」、岩畔を「機略縦横の俊才」と高く評価している。
 交渉は(岩畔が信用されていたからだろう)ワシントンの岩畔のアパートでおこなわれた。

⇒米側が岩畔を信用していた可能性は高い(注84)けれど、米側は、「機略縦横の俊才」ならぬ「未曾有の謀略の天才」岩畔の手玉に取られた、といったところでしょうね。

 (注84)「コーデル・ハルは「今後、(日米関係)がどんなことになっても君たちの真剣な努力は忘れないし、君たちの安全は私が保証する」と述べたという。
 事実、戦後、<米>軍に取り調べを受ける岩畔であったが、イギリス側は、岩畔らが大戦中に展開したインド独立工作に対する恨みから執拗に引き渡しを要求する。文字通り「矢の催促」であったという。シンガポールに連行して軍事法廷にかけるというのである。しかし、<米>側は「まだ当方の取り調べがすんでいない」と頑として引き渡しを拒否している。岩畔は「ハルが守ってくれている」と周囲に漏らしていたという。
 井川忠雄らの回想によれば、当時の<米>国務省に優秀な人材がいないことに悩んでいたコーデル・ハルは、「私にもあんな(岩畔のような)優秀な部下がいたらどんなに助かるだろう」とよく漏らしていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%95%94%E8%B1%AA%E9%9B%84

 それは、まず第一に、岩畔は、杉山らから与えられた密命であると私が見ているところの、真剣に日米調整に陸軍が臨んでいたという、実は偽りの印象を米側に(さえ)与えるのに成功した、からであり、第二に、この忙しいさ中にも、対米英開戦直後のマレー作戦に従事する・・「南方軍総司令部附となり南方作戦に従事。近衛歩兵第5連隊長として<活躍する>」(上掲)・・と共に、「シンガポール攻略<後直ち>に印度独立協力機関(通称「岩畔機関」)の長としてインド国民軍(INA)の組織と指導・自由インド仮政府の樹立に関与<する>」(上掲)ところ、その、恐らくは杉山らの示唆を受けてかねてから温めてきたと思われるこれらの作戦・謀略の最後の詰めの作業を並行して行っていたとしか考えられないというのに、そんなことを露ほども米側等に気付かれていない、からです。(太田)

 この「N工作」によって。戦争回避の日米諒解案がまとまる。
 日米諒解案の骨子は以下のとおりである。
 日本はドイツがアメリカに攻撃された場合に限って、三国同盟の参戦事項を適用する。
 日中戦争をめぐって、日本の撤兵と中国の満州国承認を条件にアメリカが和平を仲介する。
 日米通商関係も復活させる。」(197~198)
 
(続く)