太田述正コラム#10089(2018.9.24)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その59)>(2019.1.9公開)
「・・・1941年4月16日に日米了解案の成案ができあがる。・・・
ところがそこへ4月13日にモスクワで日ソ中立条約に調印した松岡外相が帰国する。
四国協商(日独伊三国と日ソ中立条約)の外交圧力によって、アメリカと交渉する意気込みだった松岡は、日米諒解案交渉に難色を示す。・・・
ローズヴェルト大統領との頂上会談に臨みをつなぐ近衛は、7月16日に内閣総辞職によって、松岡を更迭して第三次内閣を組織する。<(注85)>
(注85)「外相には、・・・海軍大将・豊田貞次郎<が>任命<され>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
豊田貞次郎(1885~1961年)。「紀伊田辺藩士・・・の次男。」海兵(首席卒業)のみ。オックスフォード大に2年半留学。軍務局長、海軍次官。「<1940>年、商工省では財界出身で資本主義を自ら体現するような大臣・小林一三と、同省生え抜きの新官僚で統制経済を国家百年の計として標榜する次官・岸信介が対立していた。岸はやがて企画院事件が発生するとその責任をとって次官を辞したが、その後は軍部と結託して小林に一矢報いることに奔走。年が明け、岸が同事件に関連して大臣にも軍事機密漏洩の責任があると公言するに至って、小林もまた大臣を辞めざるを得なくなった。<翌年4月、>近衛はこの小林の後任に豊田を推した。・・・
<その>近衛は・・・海軍の先輩であり同郷でもある駐米大使・野村吉三郎との連携がうまくいくことを期待し・・・松岡の後任の外務大臣に、わずか3か月前に商工大臣に就任したばかりの豊田を横滑りさせ<た。>・・・<その>外務大臣も在任約6か月で辞職<する羽目になっ>た。 」日本製鐵の社長を経て、終戦時は軍需大臣。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E8%B2%9E%E6%AC%A1%E9%83%8E
⇒陸軍部内を、南進論で意思統一できたことから、杉山は、日独伊三国同盟締結のための「助手」として「雇った」変人松岡が用済みとなり、切り捨てた、ということでしょう。(太田)
しかし日米諒解案の具体的な項目を詰めれば詰めるほど、両国は合意から遠ざかっていく。
結局のところ日米頂上会談は実現しなかった。<(注86)>・・・
(注86)「10月2日、<米>国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF 前掲
⇒「外交交渉の傍らで開戦準備を同時に進める日本の姿勢を警戒したアメリカは、次第に外交交渉そのものが実は開戦準備の一環としての空芝居なのではないかという疑念を募らせ<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E8%B2%9E%E6%AC%A1%E9%83%8E 前掲
に直接の典拠が付されていませんが、岩畔が6月(?)に帰国後、9月末にもなれば、さすがの米側も、日米交渉が見せ金化しつつある疑いを抱くに至っていたとしても不思議ではありません。
このことは、逆に言えば、岩畔がいた当時の日米交渉が見せ金であったとの認識には、米側はついに達することがなかった、ということです。
いずれにせよ、「具体的な項目を詰めれば詰め」ようが詰めまいが、最初から日米双方とも、纏める気などなかった日米交渉が、いつかの時点で「失敗」に終わるのは当然でした。(太田)
近衛内閣の下での日米交渉は挫折し・・・10月16日、第三次近衛内閣は総辞職する。」(198~199)
(続く)