太田述正コラム#10093(2018.9.26)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その61)>(2019.1.11公開)
「・・・訪欧から帰国した<1941年>5月、松岡に日米了解案が示される。
松岡は「それを見てポケットへ容れて、2、3週間考えようといった」。
このことは本当かと戦争調査会で質問されて、野村は「それは事実のように聞いておる」と答えている。
松岡は日米戦争の回避を目的として外交を展開していたはずである。
それなのになぜ日米了解案交渉に反対したのか。
「いまだに残る昭和史の謎の一つ」である。
大橋の回想が推測の手がかりを与える。
「自分はルーズベルトと会って話しをつけるんだと。
同時に先生[松岡]の国内的にもやはり近衛を適当なときに辞めさせて、自分があとをとって内閣をしきたい。
そうして総理になってアメリカに飛ぶ」。
大橋はその時には「外務大臣になれということをオファーされた」と証言している。
大橋の回想が正確だとすれば、松岡が描いたのはつぎのようなシナリオだった。
すなわち野村外交による日米交渉を行き詰まらせる。
近衛内閣が責任をとって総辞職し、代わりに松岡が首相の座に就く。
松岡はアメリカと直接交渉し、開戦を回避する。
⇒正確なレポートを作成する意思と能力は、(外交官に限らず、行政官一般に当てはまりますが、)外交官たる者にとってのアルファでありオメガです。
「大橋の回想<は>正確」でしょう。
松岡は、精神障害者レベルの権力・地位亡者のオポチュニストだった、と、断定してよさそうです。(太田)
しかし近衛が選択したのは野村外交だった。
辞めさせられたのは松岡の方である。
7月18日、外相を豊田貞次郎に代えて、第三次近衛内閣が成立する。
豊田は海軍軍人でありながら、グルー駐日アメリカ大使からその外交手腕を高く評価されるほどの人物だった。
⇒グルーが何を言おうと、豊田もまた、「<海軍>次官在任中は、次官室に歴代次官の肖像や名札を陳列し、自らの名もその末尾に連らねさせたが、井上成美はこれを「さながらナチスの第五列の如し」と皮肉り呆れている。また及川<海相>を差し置いて自らのもとで政務に関する案件を決裁してしまうことも多く、こうした行き過ぎた自己顕示欲は「豊田大臣、及川次官」という陰口となって跳ね返ってくることになった。念願の次官だっただけに、その職への執着もまた人一倍強く、内閣改造が取り沙汰されるようになりはじめると、今度はあからさまな留任工作を行った。・・・近衛<首相>は・・・小林<商工相>の後任に<そんな>豊田を推した。しかし現役の海軍中将である豊田がつとめることのできる閣僚は、海軍軍政を司る海軍大臣のみである。豊田は熟慮の上で、ここは海軍現役を退いて商工大臣を引き受けようと決断した。しかし転んでもただでは起きないのが豊田である。4月4日、登庁した豊田は自らの大将進級を条件に次官を依願退職するという前代未聞の辞表を及川に提出し周囲を唖然とさせた。及川はこの辞表を受理せず、豊田を大将に進級させた上で即日予備役に編入して決着を見たが、この政界転向には、普段は人の陰口など叩かない古賀峯一をして「豊田さんは出世のために海軍を踏み台にしたんだ」と言わしめるほど、省内の誰をも落胆させるような転出だった。」・・以上のくだりに直接の典拠は付されていない(太田)・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E8%B2%9E%E6%AC%A1%E9%83%8E 前掲
と、松岡ほどではないにしても、権力・地位亡者のオポチュニストであった点で変わりはありませんでした。
恐らくは、既に、来るべき「敗戦」の責任を取って自裁する決意を固めていたと想像される、(究極の人間主義者とでも形容すべき)杉山からすれば、松岡や豊田といった小物の俗物達など赤子の手をひねるように動かすことができたはずであり、だからこそ、出来悪のロボットの近衛を通じて、まず、松岡を、そして、松岡が用済みになった時点で豊田を、外相に据えたのでしょう。(太田)
豊田は東京で野村外交を支える。
野村は日米交渉が成立するには、中国問題、駐兵問題がもっとも重要だと考えた。
別の言い方をすれば、交渉の成否は日本政府内の合意形成にかかっていた。
⇒何度も繰り返しますが、米側も、交渉を妥結させる意思などなかったのですから、「日本政府内の合意形成」いかんにかかわらず、交渉が妥結することなどありえなかったわけです。(太田)
ところが案の定、10月12日、東条(英機)陸相が撤兵に反対する。
⇒念には念を入れて、杉山が反対させたのでしょう。(太田)
日米交渉がまとまる可能性はなくなった。
同月16日、第三次近衛内閣は総辞職する。」(204~205)
(続く)