太田述正コラム#10097(2018.9.28)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その62)>(2019.1.13公開)
「なぜ日米了解案は成立しなかったのか。
1946年5月13日の戦争調査会第一・第二・第四連合部会は、もっとも重要な人物を呼び寄せている。
馬場恒吾たちの目の前にいたのは、当事者の岩畔だった。
⇒井上は、岩畔を「もっとも重要な人物」と言っていますが、そんなことはありえません。
当時、日米交渉が、日本政府にとって最重要事項の一つであったことは確かでしょうが、岩畔が接することができた情報は、基本的には、日米交渉がらみと外務省が判断したもの、及び、陸軍省軍事課長としての(陸軍のクーリエ等を通じて得ていたと思われる)陸軍に係る情報だけであったはずであること、そして、例外的に、杉山元からの、事実上の訓令とないまぜになった追加情報であったと思われるところ、杉山のロボットであったところの、首相の近衛の存在も顧慮すれば、日本政府の得ていたあらゆる重要情報に接することができた上に、(岩畔からの情報も得ていたはずの、外務大臣、と、共に岩畔への指揮命令権があり、やはり)岩畔からの情報も得ていたはずの、陸相の東條、陸軍次官の阿南惟幾と木村兵太郎<(注89)>(1941年4月~)、そして、軍務局長の武藤章、更には、指揮命令権こそなかったけれど、参謀総長の杉山、らが、日米交渉だけをとっても、岩畔より「重要な人物」であったことは明白だからです。
(注89)1888~1948年。東京都出身。広島幼年学校、陸士、陸大。「昭和14年(1939年)3月から第32師団長、昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。同年3月から軍事参議官兼兵器行政本部長。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。」極東裁判で死刑。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%85%B5%E5%A4%AA%E9%83%8E
もとより、岩畔以外の、杉山、東條、阿南、木村、武藤、は、全員、当時、既に証言ができない状態にあったわけですが、その旨を井上は記すべきでした。
その上、私は、累次申し上げてきているように、岩畔は、軍事課長になるずっと前から、杉山の真意を知った上で、一貫して、杉山構想実現のために一身を捧げてきていた、と見ており、岩畔自身が設立に関与した中野学校で教育を受けた小野田寛郎が残置諜者としてフィリピンのルバング島で戦後も活動を続けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E
ように、岩畔も、戦後には、亡くなるまで、すっと、杉山元構想の秘匿のための残置諜者としての活動を日本で続けた、と、私自身は見ている次第です。
(岩畔の戦後の「活動」は隠棲に近いものでした。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%95%94%E8%B1%AA%E9%9B%84 )
だとすればですが、岩畔は、本当のことを証言するはずがなかったのです。(太田)
岩畔は・・・「近衛さんのアイデア<は、その>遺書<に書かれているように、>・・・三国同盟をやって日米交渉をやる積りであったと<ころ、それは>・・・論理的矛盾だと・・・<いう>非難<があ>るが、・・・<私自身>にも三国同盟を外交的な圧力として、日米了解案を成立させる意図があった。・・・<実際、米側は、三国同盟締結>までは・・・<日本との>話に乗るだけの価値がないように思っていた<のが、日本が>・・・三国同盟に入っ<てからは、>・・・話が出来<るようになっ>た。・・・
<そのことは、>天皇も認めていた。
『昭和天皇実録』の4月21日の記述によれば、天皇は木戸(幸一)内大臣につぎのように語っている。
「米国大統領が今回の如く極めて具体的な提案を申し越したことはむしろ意外ともいうべきも、かかる事態の到来は我が国が独伊両国と同盟を結んだことに基因するともいうべく、すべては忍耐、我慢である」。・・・
このように三国同盟の存在にもかかわらず(あるいはそうだからこそ)、日米了解案による戦争回避の可能性はあった。」(205~207)
(続く)