太田述正コラム#10101(2018.9.30)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その64)>(2019.1.15公開)
「・・・近衛のつぎに首相の座に就いたのは東条である。
⇒杉山としては、いよいよ開戦目前ともなれば、口の軽い近衛では危ういことこの上ないので、首相をこの時期に東條に替えたのは予定の行動だったのでしょう。(太田)
陸相としては強硬論を主張した東条であっても、首相になると天皇の意向に即して、それまでの決定を白紙に還元し、和戦両様の構えで臨む。
11月までは外交交渉をつづける。
それまでに合意を得られなければ、12月初めに開戦する。
この両論併記の決定に基づく日米交渉は期限までに間に合わず、真珠湾攻撃に至る。
⇒この間の経緯は以下の通りです。(諸所に私の見解を挿入しました。)↓
「近衛の後任首相については、対米協調派であり皇族軍人である東久邇宮稔彦王を推す声が強かった。
皇族の東久邇宮であれば和平派・開戦派両方をまとめながら対米交渉を再び軌道に乗せうるし、また陸軍出身であるため強硬派の陸軍幹部の受けもよいということで、近衛や重臣達だけでなく東條も賛成の意向であった。
ところが内大臣・木戸幸一は、独断で東條を後継首班に推挙し、昭和天皇の承認を取り付けてしまう。
⇒「皇室に累を及ぼさぬようにということで木戸幸一内大臣の反対によりこの構想は潰れ<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
ことに触れるべきでしょう。
当然のことながら、こうなることを見越して、杉山らが、当て馬として、東久邇宮の名前をあげただけだった、というのが私の見解です。(太田)
この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで「戦争回避にもっとも有効な首班だ」というふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。天皇は木戸の東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。この首班指名には、他ならぬ東條本人が一番驚いたといわれている。
⇒このくだりは、木戸の証言がないのですから、単なる憶測です。
戦後の昭和天皇の東條評からして、天皇は東條を、少なくとも近衛などよりは、はるかに信頼しており、東條の首相起用は、天皇自身の意向だった、と私は見ています。(太田)
木戸は後に「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。(東久邇宮以外に)宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。
⇒木戸のこの戦後(?)発言は、天皇の戦争責任回避のための、メーキング証言でしょう。(太田)
東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。
天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちに改め、外相に対米協調派の東郷茂徳<(注91)>を据え、一旦、帝国国策遂行要領を白紙に戻す(この時、陸軍省に戻って来て執務室までの道中「和平だっ、和平だっ、聖慮は和平にあらせられるぞっ」と叫びながら歩いたという)。
(注91)生名は朴茂德で、「文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の」子孫。七高、東大(独文)、外務省入省。「1937年(昭和12年) – 1938年(昭和13年)に駐独大使<、>・・・駐在陸軍武官大島浩や、・・・ナチスの外交担当ヨアヒム・フォン・リッベントロップと対立し、駐独大使を罷免される。
1938年(昭和13年)に東郷は駐ソ大使として赴任した。それ以前の状況としては、1936年(昭和11年)に締結された日独防共協定の影響で日ソ関係は悪化しており、前任の重光葵が駐ソ大使として赴任している間ついに好転することはなかった。その後、東郷と対する・・・モロトフソ<連>外相とは、日ソ漁業協商やノモンハン事件勃発後の交渉を通じていくうちに互いを認めあう関係が構築され、東郷は「日本の国益を熱心に主張した外交官」として高く評価された。こうした状況の好転を踏まえ、東郷は悪化する<米国>との関係改善、および泥沼化する日中戦争(支那事変)の打開のため、日本側は<ソ連>の蒋介石政権への援助停止、<ソ連>側は日本側の北樺太権益の放棄を条件とした日ソ中立条約の交渉が開始され、ほぼまとまりつつあった。しかし、第2次近衛内閣が成立し、松岡洋右が外務大臣となると、北樺太の権益放棄に反対する陸軍の意向を受け、東郷には帰朝命令が出されてしまう。・・・
東條内閣で外務大臣兼拓務大臣。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣。・・・
<後者の時、>ソ連を仲介して和平交渉を探るという方策を提案・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3
⇒それ以前から、昭和天皇の平和志向性は明らかであり、にもかかわらず、陸相時代の東條は対米強硬論を吐き続けたのですから、「天皇への絶対忠信」が聞いて呆れます。
「和平だっ・・・ぞっ」は、周りに聞かせ、それが天皇に伝わることを計算したところの、演技、以外の何物でもないでしょう。(太田)
さらに対米交渉最大の難問であった<支那>からの徹兵要求について、すぐにということではなく、<支那>国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹兵するという趣旨の2つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。
東條率いる陸軍はかねてから<支那>からの撤兵という要求を頑としてはねつけており陸相時の東條は「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」「駐兵は心臓である。(略)譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」「支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ」とまで述べていた。
しかし内閣組閣後の東條の態度・行動は、この陸相時の見解とは全く相違のものであり、あくまで戦争回避を希望する昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思の実現に全力を尽くそうとしたことがよく窺える。外相の東郷が甲案・乙案をアメリカが飲む可能性について疑問を言うと、東條は「交渉妥結の可能性は充分にある」と自信有り気だったという。
⇒杉山構想実現の目途がつくまでは、天皇に首相を馘首されることを絶対回避すべく、東條は、開戦前に、徹底的に天皇に胡麻をすっておいた、というだけのことでしょうね。(太田)
しかし、日本政府側の提案は・・・<米国>政府側の強硬な姿勢によって崩れ去ってしまう。11月末、<米国>政府側は・・・ハル・ノートを提示し、日本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であり、日本軍の<支那>からの即時全面徹兵・・・という・・・強硬な見解を通告してきた・・・。
ハル・ノートを目の前にしたとき、対米協調をあくまで主張してきた東郷でさえ「これは日本への自殺の要求にひとしい」「目がくらむばかりの衝撃にうたれた」といい、東條も「これは最後通牒である」と認めざるを得なかった。
⇒東條は喜びを隠すのに一苦労したことだろう、と私は想像しています。(太田)
これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するに至る。対米開戦決定を上奏した東條は、戦争回避を希望し続けていた天皇の意思を実現できなかった申し訳なさから上奏中に幾度も涙声になったといわれる。
⇒東條は、まことに、大した役者でした。↑↓(太田)
また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びている。こうして東條とその内閣は、戦時下の戦争指導と計画に取り組む段階を迎える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F (太田)
これまでの研究は、東条内閣になってからも、開戦回避の可能性があったことを明らかにしている。
対する戦争調査会の資料は、最後に残された開戦回避の可能性を考える手がかりに乏しい。
このことは戦争調査会の調査の不十分さよりも、近衛内閣下の日米交渉こそ最後のチャンスだったことを示唆している。・・・」(209~210)
⇒井上でさえ、「東条内閣になってからも、開戦回避の可能性があったことを明らかにしている<ところの、>・・・これまでの研究」を退けているわけです。(太田)
(続く)