太田述正コラム#726(2005.5.18)
<傭兵ホークウッド>
1 始めに
傭兵の歴史において、ひときわ光芒を放っているのが14世紀にイタリアで活躍したイギリス人、ホークウッド(Sir John Hawkwood。1320?94年)です。
彼を通じて、われわれには、イギリス人にとって理想の人間像がいかなるものか、がかいま見えてきます。
イラクで英国系の民間軍事会社(PMC。現代の傭兵隊)に勤務していた斎藤昭彦さんの事件がまだ解決していない現在、ホークウッドについて振り返ってみることも意義があるのではないでしょうか。
2 ホークウッドについて
(1)戦士ホークウッド
ホークウッドは1320年にイギリスのエセックスでヨーマン(注1)の子供として生まれます。
彼は長じてなめし職人(tanner)になるのですが、後に一兵士としてイギリス国王エドワード3世(在位1327?77年)やその長男のエドワード黒太子(Black Prince)の下で英仏戦争の前半に従軍し、いずれもイギリス軍の大勝利に終わったクレシーの戦い(1346年)やポワティエの戦い(1356年)を経験します。
(注1)yeoman=郷紳(gentleman)より低い身分たる自作農。(http://www.encyclopedia.com/html/y1/yeoman.asp。5月17日アクセス)
イギリス軍の強さは、これらの戦いの大勝利によって、欧州中に響き渡るのですが、イギリス側優位のうちに1460年に和議(Treaty of Brétigny)が結ばれるとホークウッドは郷里に戻らず、同僚達とともに傭兵隊を結成し、戦火の絶えないイタリア(注2)へと流れて行きます。
(注2)法王庁の予算の60%が軍事費に費やされるような時代だった。詩聖ダンテ(Dante Alighieri。1265?1321年。後出)の「神曲」に出てくる地獄は、当時のイタリアそのものだと言われている(オブザーバー後掲)。
イタリアでホークウッドは、その白い旗と光り輝く甲冑によってWhite Gompany(Societas Alba Anglicorum)と呼ばれるようになった、泣く子も黙る傭兵隊等の隊長として、ピサ・ミラノ・フィレンツェや法王庁のために容赦なく戦い(注3)、戦いの合間には、傭兵隊を率いて村落等の略奪にあけくれます。
(注3)ホークウッドの最も悪名高い所業は、1377年にセッシーナ(Cesena)という町で報復目的で三日三晩にわたって行った、市民3000?8000人の大虐殺だ。もっとも、セッシーナの生き残った市民達は、ホークウッドの傭兵隊員をこの復讐のために追いかけ、300人を殺害している。
ホークウッドの残忍さと怜悧さは、「イタリア化したイギリス男子は悪魔の生まれ変わり」という諺をイタリアで生んだほどです。
そして56歳の時にミラノを支配するヴィスコンティ家の17歳位の息女を妻にしたホークウッドは、フィレンツェ共和国の軍最高司令官にまで登りつめるのです。
ただし、収入も多かったけれども出費もかさんだため、ホークウッドは大した資産は残していません。
(2)イギリスとのつながり
ホークウッドは傭兵稼業を始めてからも、生涯イギリス王室に忠節を尽くし続けました。
エドワード3世は、ホークウッドの戦士としての抜きん出た能力と、決して契約を違えない誠実さとを高く評価しナイト爵を授与することによってこの忠節に報います。
そしてホークウッドはエドワード3世の外交使節を務め、エドワードの息子リチャード2世(在位1277?99年)には、二度にわたって法王庁への大使に任命されるのです。
(3)死
ホークウッドがずっと願っていたのは、時々帰っていた故郷のエセックスで最期を迎えることでしたが、これを果たせず、彼は1394年にフィレンツェで客死します。
リチャード2世はホークウッドに敬意を表し、そのなきがらをイギリスに引き取ろうとしますが、ホークウッドはフィレンツェの大聖堂に葬られることになります。これは、彼の一世代前の人間であるダンテにすら許されなかった名誉です。
彼の死後、フィレンツェではフレスコによる彼のポートレートがつくられ、フィレンツェの大聖堂に飾られるのですが、そのポートレートにはラテン語で、「彼の時代における最も慎重にして練達の将軍として尊敬を集めたイギリスのナイト、ジョン・ホークウッド」と記されています。
3 終わりに
コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle。1859?1930年)は、ホークウッドについて書いた本(The White Company)の中で、ホークウッドを騎士道にかなった英雄であるとしています。
(2と3のここまでは、http://www.deremilitari.org/REVIEWS/Saunders_Hawkwood.htm、http://www.thetablet.co.uk/cgi-bin/book_review.cgi/past-00210、http://www.spectator.co.uk/newdesign/books.php?issue=2004-12-11&id=2615、http://observer.guardian.co.uk/review/story/0,6903,1356014,00.html、http://college.hmco.com/history/readerscomp/mil/html/mh_022900_hawkwoodjohn.htm(いずれも5月11日アクセス)、及びhttp://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1355211,00.html(2004年11月21日アクセス)による。)
中世の昔ならともかく、カネのために敵や民間人に対する殺戮行為を繰り返したホークウッドのような人間を、殆どわれわれと同時代人であるあの高名な作家のドイルがどうして英雄視するのか、怪訝に思われるかもしれません。
しかしイギリス人、すなわちアングロサクソンは、戦争による略奪行為を生業としていたゲルマン人やバイキングの嫡流であり、アングロサクソンには現在もなお、戦争を罪悪視するどころか、戦争と聞くと血潮がたぎる人が多いのです。ですから、イギリス人であると言ってもよい(注4)ドイルのホークウッド観は不思議でも何でもないのです(注5)。
(注4)ドイルはアイルランド系のカトリック教徒でスコットランド出身だ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%AB。5月17日アクセス)が、彼の生み出したシャーロック・ホームズは最もイギリス人らしいイギリス人の一人であることからすれば、ドイルを「イギリス人であると言ってもよい」と考える。
(注5)昨年、ホークウッドの伝記Hawkwood: Diabolical Englishmanを上梓した(イギリス人ならぬ)「米国人」女性が、この本のタイトルからも分かるように、ホークウッドに極めて批判的であることは興味深い。
そして、現代の傭兵隊と言ってよい、大部分がアングロサクソン系であるところの民間軍事会社にも、きっとホークウッド以来の伝統が脈々と受け継がれていることでしょう。