太田述正コラム#10111(2018.10.5)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その67)>(2019.1.20公開)
「・・・日中戦争下の1937年10月、戦時統制経済の調査・立案をおこなう総合国策機関の企画院が設立される。
企画院は1943年11月に軍需省に吸収される。
この企画院において物資動員計画の立案の中心にあったのが稲葉秀三<(注94)>(ひでぞう)だった。・・・
(注94)1907~96年。「京都市生まれ。1931年京都帝国大学文学部哲学科卒。1934年東京帝国大学経済学部卒。1937年企画院に入り、物資動員計画を策定。企画院事件に連座し、治安維持法違反容疑で投獄。戦後1945年国民経済研究協会を設立し、理事長。1962年サンケイ新聞論説主幹。日本工業新聞社長。65年サンケイ新聞社長。産業研究所理事長、国策研究会会長。戦後経済安定本部の三羽ガラスと言われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E7%A7%80%E4%B8%89
稲葉は戦争調査会のインタビューに応じている(1946年2月20日)。
稲葉は物資動員計画の未達成の原因を指摘する。
原因は「計画とその実施にイニシアチーブを採った軍部官僚の経済認識の過少或は軍内部における陸海双方の協力性の欠除」だった。
⇒当時の軍部官僚達、とりわけ、陸軍官僚達の経済認識は、知力の懸隔からして、稲葉らの経済認識程度よりもはるかに深かったはずだと私は見ていますし、膨大になってしまうので立ち入りませんが、陸海軍間の資源の取り合いなどは、先の大戦において、どの国でも起ったことです。(太田)
さらに稲葉は2月28日のインタビューにおいて、物資動員計画をめぐる問題に対して、つぎのように結論づけている。
「我国としてはこの様な一つの『甘い見透し』のもとに開国以来の運命をかけて太平洋戦争に突入したのではなかったのであろうか」。・・・
以上のような戦争調査会の現地調査<(省略(太田))>に基づくと、物資動員計画に基づく生産力拡充は、戦後の日本に政治的・経済的・社会的な負債しか残さなかったようにみえる。
しかしこのような見方とは異なる意見があった。
戦争調査会は1946年5月30日に、水津利輔<(注95)>(すいつりすけ)の講演と質疑応答をおこなっている。
(注95)1893~1980年。「大正9年から昭和16年にかけて鞍山製鉄所およびその後身の昭和製鋼所に勤務し、・・・昭和製鋼所の拡充計画立案を行い、 昭和16年から終戦にかけては日本鉄鋼統制会理事としてより広い「日満支」の枠での鉄鋼計画の実施にあたり・・・さらに戦後は昭和38年まで日本鉄鋼経営者連盟理事、ついで日本鉄鋼連盟常務理事などを歴任し<た。>」
http://rcisss.ier.hit-u.ac.jp/Japanese/guide/collections/suitsu.html
満州の鞍山(あんざん)製鉄所(とその後身の昭和製鋼所)に勤務したあと、1941年から日本鉄鋼統制会理事といして、戦時中は「稲葉さんその他と随分喧嘩しながら」、「日満支」三国の鉄鋼増産計画を立案していた。・・・
<その水津は次のように語った。>
日本は自らが招いた戦争によって生産力を破壊した。
しかし戦争が<、日本人の意識改革をもたらしたことを通じ、>日本の工業化の促進要因だったことも否定できなかった<、と>。」(223~224、228~229)
⇒水津の、製鉄に関わるようになるまでの経歴が分からないのが残念ですが、彼は、超インテリであった稲葉などより、数段まともな見識の持ち主だった、という印象です。
しかし、そんな水津が、この講演の中で、「『来るべき平和的、文化的世界に対して日本は一つの贈り物がある<とし、それは、>自ら『失敗原因の報告』をすること<である、と語っている>」
https://twilog.org/asahipress_2hen/month-1508
のは残念です。
もとより、杉山構想秘匿の結果がもたらした誤解であるわけですが、「来るべき・・・世界に対して日本<が残した>贈り物は、「失敗原因の報告」どころか、非欧米世界の解放という「成功の報告」でなければならなかったのです。(太田)
(続く)