太田述正コラム#10167(2018.11.2)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(付け足し)(その13)>(2019.1.23公開)

 第九の手掛かりは、杉山元がソ連への仲介依頼に賛成したことです。
 ソ連が、1945年(昭和20年)4月5日に、翌年期限満了となる同条約をソ連政府は延長しない(ソ連側は「破棄」と表現)ことを日本政府に通達した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
ことこそ、周知の事実であったけれど、杉山らは、1945年2月の半ばの小野寺信電から始まる一連の陸軍武官の電報や報告をもとに、ソ連の対日参戦をその時期まで含めて掌握していたけれど、これらの電報や報告内容も、陸軍における掌握内容も、陸軍以外には一切伝えなかった、と見てよいところ、このことを念頭に、下掲を読んでいきましょう。↓

 「<1945年>6月6日の最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されると、内大臣の木戸幸一と東郷<外相>、米内光政海軍大臣は、<戦争の先行きを憂慮し、>・・・ソ連を通じた和平の斡旋へと動き出した。

⇒当然、こんな動きは杉山らの把握するところとなったはずであるところ、「6月11~12日の段階で、7~8月におけるソ連の参戦に確信を持ったはず」の杉山ら(前述)は、その根拠を明かすことで、このような無意味な画策を止めさせることができたはずなのに、そうはしませんでした。
 それは、そんなことをしたら、そのほぼ全員がせいぜい横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者であるところの、(陸軍以外の)日本の政府関係者達が、うち揃って即刻の降伏を求める騒ぎになり、陸軍としてもその声に抗うことができなくなるのを回避するためだった、と見るべきでしょう。(太田)

 木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を速やかに行うよう政府首脳に要請した。

⇒海軍は、海軍武官の累次の電報の内容について半信半疑だった、ということでしょうが、(当然、天皇にも手をまわしたに違いない)杉山らは、この成行に胸を撫で下ろした、と思われます。(太田)

 しかし東郷<が御膳立てし、それ以前から断続的に行われてきていたところの、>広田<元首相と>マリク<駐日ソ連大使との>会談<には、和平斡旋依頼を行うようになってからも、相変わらず>進展が見られなかった<ことから、>・・・天皇は7月7日に親書を持った特使を派遣してはどうかと東郷に述べた<ので、>東郷は近衛文麿に特使を依頼し、7月12日に近衛は天皇から正式に特使に任命され・・・外務省からはモスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝え・・・た・・・
 <ソ連は、>7月のポツダム会談では近衛特使の件を、<米英>に暴露した上で、両国と協議してソ連対日宣戦布告まで、日本政府の照会を放置する事に決定した上でポツダム宣言に同意した。一方、日本政府はソ連の仲介を期待して<同宣言に>「ノーコメント」とする方針を取<ったため>、8月6日の広島への原子爆弾投下、8月9日のソ連対日参戦を回避することは出来無かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%99%8D%E4%BC%8F

⇒杉山らは、陸軍以外の日本の政府関係者達はもちろん、ソ連も米英も、全ての関係者達を騙すことに成功し、彼らは、皆、概ね、杉山らの「期待」通りの言動を行ってくれることになったのです。
 「概ね」というのは、原爆投下だけは、(後述するように、)杉山らの想定外であった可能性が大だからです。(太田)

(続く)