太田述正コラム#10175(2018.11.6)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(付け足し)(その15)>(2019.1.27公開)
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[ツヨシ・ハセガワ説の誤り2:畑俊六篇]
「連合国軍の沖縄上陸の6日後の4月7日に・・・<第2総軍>司令部が広島市(二葉の里)の旧騎兵第5連隊本部に置かれ[、翌8日に、畑俊六(注13)を司令官として第2総軍<に着任し>]た。
(注13)1879~1962年。「父は旧会津藩士」一中、中央幼年学校、陸士、陸大(首席)。「ドイツ大使館付武官補佐官・参謀本部作戦班長・参謀本部作戦課長兼軍令部参謀・航空本部長など作戦関係の要職を歴任し、参謀本部第四・第一部長、砲兵監、第十四師団長、1936年(昭和11年)に台湾軍司令官。翌1937年(昭和12年)に陸軍大将に昇任し、軍事参議官・陸軍教育総監を兼任する。・・・1938年(昭和13年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官・・・
1939年(昭和14年)に侍従武官長に就任時も昭和天皇の信任が厚く、「陸相は畑か梅津を選ぶべし」との言葉から侍従武官長をわずか3ヶ月で辞め、同年8月に成立した阿部内閣の陸軍大臣に就任した。その次の米内内閣でも留任した。しかし、天皇から内閣への協力を厳命されていたにもかかわらず、日独伊三国同盟締結に絡んだ陸軍の命により単独辞職、後任陸相も出せず米内内閣瓦解の原因となった。畑は当時の参謀総長だった閑院宮載仁親王から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を断ることができなかった。しかし、閑院宮の顔を立てたいと考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていた。しかし、米内にも圧力がかけられたらしく、最終的には辞表を受理したという経緯があった。・・・
1941年(昭和16年)に支那派遣軍総司令官となり、在職中の7月に、ドイツ軍の対ソ攻勢に呼応して関東軍特種演習が発動されて対ソ戦が企図されると、畑は・・・総参謀副長及び・・・参謀を参謀本部に派遣し、「目下は鋭意支那事変解決に専念の要あり」と具申させ、対ソ戦発動中止の一因を作った。また、大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦に際しても、・・・総参謀副長と・・・参謀を再度参謀本部に派遣し、前回同様支那事変解決を優先すべきと意見具申したが、・・・具申は通らなかった。1944年(昭和19年)に元帥となる。
太平洋戦争では太平洋やビルマの戦いで日本軍が劣勢になる時期に中国戦線において大陸打通作戦を指揮、<蒋介石政府>軍に大勝利を収め・・・た。
1945年(昭和20年)4月、小磯内閣総辞職後の後継を決める重臣会議で東條英機から総理に推されたが、他の重臣達が鈴木貫太郎を推したため総理就任は実現しなかった。同月、・・・第2総軍・・・が設立されると、その司令官となる。同年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
・・・原子爆弾を投下・・・により第2総軍の総司令部以下全組織は壊滅的な被害を受けた。総軍の中枢部が崩壊し<広島所在の>諸部隊も全滅に近い状態となり、命令系統不全となる。このため爆心地から4kmと比較的離れた宇品にあった陸軍船舶司令部所属の暁部隊が救護・救援活動の主力となった。
全壊全焼エリアの第2総軍司令部は、午後2時に独断で広島市に戒厳令を布告した。そして在宇品の陸軍船舶司令官佐伯文郎中将を広島警備担任司令官に任命した。以降、第2総軍は原爆負傷者の救護・救援活動を任務とする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E7%B7%8F%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
⇒畑は杉山と陸士、陸大同期で、陸大では杉山が優等ですらなかったのに首席だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7
けれど、その後、陸軍省の幕領としての勤務がなかったところを見ると、(政治力や根回し力や人心収攬術等を含む)広義の行政能力において、杉山に一日の長があったということなのだろう。
やがて、杉山に序列を譲り、参謀次長/参謀総長に就任することなく、教育総監就任は杉山の後任の寺内寿一の更に後になった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
し、陸軍大臣就任も、杉山の後任の板垣征四郎の更に後になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
その畑が、杉山に対し、大臣の時に一度、また、支那から二度、異議申し立てを行ったわけだが、これは、畑が、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者であったと思われるからこそだろう。
そんな畑を第2総軍司令官として支那から呼び戻した杉山は度量が実に大きかった、と私は思う。
恐らくは、同期で陸大首席の畑に対し、杉山は、最後まで敬意と友情を抱いており、そんな彼・・自分や東條同様、天皇に気に入られている!・・が、自分とは考え方を異にする人物であるだけに、杉山構想に基づき終戦時期を探らねばならない禍機において、自分に対して忌憚のない異論を唱えてくれることを期待した、しかも、陸軍大臣辞任の時の行動からも、彼が、最終的に杉山が決断したことには従ってくれるという信頼感があった、ということではなかろうか。
ちなみに、畑の陸軍大臣辞任の時の顛末だが、当時、杉山は支那から戻って東京にいたと思われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
ところ、直接、或いは、沢田茂参謀次長・・旧土佐藩の農民を父親に持ち、杉山が参謀総長になってからも、しばらく留任している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E7%94%B0%E8%8C%82
ので、杉山構想賛同者だと思われる・・を通じて、閑院宮参謀総長を操縦したのだろうし、畑の支那からの二度の異議申し立ての最初のものはそもそも杉山の本意と一致していた(コラム#省略)ので最終的に受け入れた形になり、次のものは違背していた(同左)のでにべもなく却下した、というわけだ。
その畑が杉山に対して行った最後の異議申し立てが、「1945年8月14日10時、昭和天皇<が>御前会議の開催に先立って<在内地であった>元帥<達の>会議を召集し、畑俊六・・・、杉山元・・・、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみ<が>「担任正面の防御に就ては敵を撃攘し得るといふ確信は遺憾ながらなし」と率直に現状を<吐露した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD 前掲
ことだろう。
もとより、それは、畑が事前に杉山と話し合いを行い、杉山が終戦の最終的判断を下したからこそ、畑による天皇に対する上記畑言上になった、と見るべきだろう。
そして、その話し合いの内容は、畑からの、自分の管轄下の広島と長崎への原爆投下が一般住民及び第2総軍司令部以下諸部隊に与えた惨禍の報告とそれを踏まえた終戦の懇願を受けて杉山が最終的に終戦を決断した、というものであったはずだ。
杉山は、畑のこの懇願さえなければ、海軍は終戦派の米内光政海軍大臣と継戦派の豊田副武軍令部総長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%89%AF%E6%AD%A6
に分裂していたこともあり、仮に東郷重徳外務大臣や(6人からなる御前会議の一応メンバーである)平沼騏一郎枢密院議長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E
、更には鈴木貫太郎首相が終戦を主張しても継戦するつもりであり、万一、天皇が終戦を命じた場合はクーデタを決行してでも継戦するつもりでその準備もしていたと考えられる・・軍令部を継戦派が牛耳っていた(次長の大西瀧治郎も継戦派(上掲))ことから国軍相撃状態にはならず、クーデタを行えば必ず無血で成功すると踏んでいたはずだ・・けれど、その考えを改めた、と見るわけだ。
すなわち、ツヨシ・ハセガワ説は、杉山ら、帝国陸軍首脳達にとって、ソ連の対日参戦はその時期を含めて織り込み済みであったこと、彼らは8月時点で降伏するつもりは全くなかったこと、ところが原爆投下があったことで、彼らは予定を繰り上げて降伏することにしたと解されること、から誤りであって、従来の通説が正しかった、と断ぜざるを得ないのだ。
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(続く)