太田述正コラム#10183(2018.11.10)
<吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』を読む(その4)>(2019.1.29公開)
「近代初期の戦争では、常に伝染病などによる戦病死者が戦死者をはるかに上まわった。
それが、軍事医学や軍事医療の発達、補給体制の整備などによって戦病死者が減少し、日露戦争では、日本陸軍の全戦没者のうちで戦病死者の占める割合は26.3%にまで低下した。
日露戦争は戦史者数が戦病死数を上まわった史上最初の戦争になった。
⇒一定以上の規模、態様の戦争の話なのでしょうが、いかなる規模、態様なのかを吉田は書いてくれるべきでした。(太田)
ところが、日中戦争では、・・・戦争が長期化するにしたがって戦病死者数が増大し、1941年の時点で、戦死者数は1万2498人、戦病死者数は1万2713人(ともに満州を除く)、この年の全戦没者のなかに占める戦病死者の割合は、50.4%である・・・。
<そして、>支那駐在歩兵第一連隊・・・<の>絶望的抗戦期にほぼ重なる1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である・・・。
戦病死者が全戦没者のなかに占める割合は、1944年以降は実に73.5%にもなる・・・。
⇒支那派遣軍は、終戦まで、一度も絶望的抗戦をしたことはないはずであることはともかく、特定の部隊でもって全体を推し量るわけにはいかないでしょう。(太田)
だが実際には、この数字以上に戦病死者が多い可能性も否定できない。
戦病死を戦死にいわば「読み替える」事例があったからである。・・・
日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している・・・。
これに対し秦郁彦は藤原推計を過大だとして批判し、37%という推定餓死率を提示している。
しかし、その秦自身も、「それにしても、内外の戦史に類を見ない異常な高率であることには変わりがない」と指摘している・・・。
このような多数の餓死者を出した最大の原因は、制海・制空権の喪失によって、各地で日本軍の補給路が完全に寸断され深刻な食糧不足が発生したからである。
前線部隊に無事に到着した軍需品の割合(安着率)は、1942年の96%が、43年には73%に、44年には67%に、さらに45年には51%にまで低下し、海上輸送された食糧の3分の1から半分が失われた。・・・
問題は、栄養失調が前線での疾病と相互に関連していたことである。・・・」(28~34)
⇒諸数字の紹介それ自体の意義は認めますが、だからどうした、と言いたくなります。
餓死の多さの背景にあるのは、第一に、「戦病死者の占める割合」の多さは、大東亜戦争の、対米英戦争部分の中心的戦闘が島嶼を巡るものであったこともあって、攻撃に対して剥き出しの海上兵站路への依存度が高かったこと、第二に、安着率の低下はもっぱら米潜水艦によるものであった(典拠省略)ところ、帝国海軍が対潜水艦戦を大東亜戦争開戦まで軽視した(注4)こと、であるところ、第一についてはどうしようもなかったわけですが、第二については、海軍のこの懈怠のよってきたる所以を吉田には追及して欲しかったですね。(太田)
(注4)「海上護衛専門の部隊が発足したのは<なんと>42年4月<であり、>・・・ハンターキラーグループの発足<は、実に、>44年8月<になってからだった。なお、>・・・護衛空母・・・四隻・・・駆潜艇や掃海艇・・・護衛空母の艦載機に哨戒機に飛行艇・・・機雷爆雷<、>ソーナー<、>レーダー<を遅ればせながら整備したし、それらの性能もさほど連合国に劣るものではなかったが、>・・・ソーナーシステムの能力の極端な劣弱が致命的で・・・10ノット以上の速力での航行中に使用すると極端に探知性能が低下した」
https://togetter.com/li/1258232
開戦迄軽視された理由を調べているが、依然不明だ。
(続く)