太田述正コラム#10185(2018.11.11)
<吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』を読む(その5)>(2019.1.30公開)

 「形式上は戦死か戦病死に区分されているものの、実態上はまったく異なる死のありようとして、非常に数が多いのは日本軍自身による自国軍兵士の殺害である。
 その一つは、「処置」などと呼ばれた傷病兵の殺害である。
 1935年3月、日本政府は、「戦地軍隊における傷者及病者の状態改善に関する1929年7月27日の『ジュネーブ』条約」(赤十字条約)を交付した。
 戦地における傷病兵は「国籍の如何を問わず」、人道的に処遇しその治療にあたらなければならないことを定めた条約である。
 その第一条には、退却に際して、傷病兵を前線から後送することができない場合には、衛生要員をつけて、その場に残置し敵の保護に委ねることができるという一節があった。
 つまりは傷病兵<や衛生要員>が捕虜になることを容認する条文である。・・・
 ところが、その後、1939年の5月から9月にかけて、日ソ両軍の間でノモンハン事件が勃発した。・・・
 戦闘・・・終息・・・後、捕虜となった日本軍将兵が日本側に送還されてきた・・・<時、>陸軍中央は、・・・捕虜になることを事実上禁じるという方針を<事後的に>適用<した。>・・・
 <これは、>傷病兵や衛生要員の残置容認という従来の方針に見直しをせまるものとなった。・・・
 さかのぼれば、1907年制定の「野外要務令」が・・・残置を容認していた。
 この規定はその後、廃止されるが、1924年制定の「陣中要務令」で復活する・・・。・・・
 それが、1940年改定の「作戦要務令 第三部」では・・・傷病兵を後送できない場合には、自殺を促すか、何らかの形で殺害することが暗示されている。
 こうした転換を決定的にしたのが、1941年1月8日に東条英樹陸軍大臣が示達した「戦陣訓」である。
 戦場で日本軍兵士が守るべき徳目を説いたこの「戦陣訓」は、「生きて虜囚の辱めを受けず」という形で捕虜となることを事実上、禁じた。
 これを受ける形で、明示的に捕虜となることを禁じた文章がこの時期に作成されている。
 同年12月に陸軍航空総監部が作成した『空中勤務者の嗜」がそれだ・・・。」(65~68)

⇒帝国陸軍悪玉論と連動した、この手の「戦陣訓」悪玉論には、いつも辟易させられます。
 下掲の囲み記事・・未定稿に近いけれど、こういった原因究明を全く行っていない吉田らに猛省を促すために書いてみました・・を読んでください。(太田)

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[戦陣訓について]

1 戦陣訓

 戦陣訓は、[南京事件に対して、中支那派遣軍司令官松井石根大将らの交代を陸軍大臣に進言し・・・翌1938年(昭和13年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官とな<った>]畑俊六が発案した「支那事変での軍紀紊乱」対策だった(下掲)のだから、日支戦争でそれまで相当ひどい軍紀紊乱があったわけであり、南京攻略の時にだけなかったとは考えにくいこと、「生きて・・・」の箇所は、付け足し的なものでしかなかったこと、はさておき、戦陣訓の作成は、あの岩畔豪雄が起案者だったらしいし、かつ当時の日本の知識人の上澄み達も関与していること、この上澄み中一人も、(そして、発表後のマスコミ等も、)「生きて・・・」の箇所を問題視した形跡がないこと、から、「生きて・・・」は、陸軍が目新しいおかしな規範を作った、というものでは全くなさそうであることが分かるはずだ。↓

 「支那事変での軍紀紊乱への対策として教育総監部が軍人勅諭を補足するものとして作成をはじめた。岩畔豪雄が発案したといわれ、岩畔は軍紀紊乱対策として「盗むな」「殺すな」「犯すな」を平易な言葉で表現したものとして提案したが、完成された戦陣訓は古典的な精神主義を前面に出したもので当初の岩畔の意図とは異なるものとなった。
 陸軍大臣畑俊六が発案し、教育総監部が作成を推進した。当時の教育総監であった山田乙三や、本部長の今村均、教育総監部第1課長<と課員達らが>中心として作成された。
 国体観・死生観については井上哲次郎・山田孝雄・和辻哲郎・紀平正美らが参画し、文体については島崎藤村・佐藤惣之助・土井晩翠、小林一郎らが校閲に参画した。・・・
 東条英機陸軍大臣が戦陣訓を主導したという・・・説があるが、岩畔豪雄によれば戦陣訓は前任の板垣征四郎陸相、阿南惟幾陸軍次官の時にすでに作成が開始されており、起草作業が長引き、東条が大臣の時に完成した<ものだ>。
 陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において陸訓第一号<(陸軍大臣告示)>として全軍に示達した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD ([]内)

2 「生きて・・・」は国民的コンセンサスだった

 そもそも、1931年に満州事変・日支戦争・大東亜戦争が始まった直後の段階よりもずっと以前から、陸軍はもとより、国民の間でも、「生きて・・・」はコンセンサス化していたようだ。↓

 「1932年の第一次上海事変において、上海に派遣された陸軍第九師団歩兵第七連隊の第二大隊長だった空閑昇(くがのぼる)少佐は怪我で人事不省に陥り捕虜となりましたが、捕虜の身を恥じて自決を考えていたといいます。
 当時、すでに捕虜となることを恥とする観念が主流となっていたわけです。・・・日本に帰国し<た>・・・空閑少佐は部隊の戦闘詳報と部下の功績調査表の作成後、・・・拳銃で自殺しました。・・・
 この空閑少佐の自決の前には、陸軍士官学校の同期生(22期)たちが空閑少佐に盛んに自殺を奨めていたそうです。同期生たちは個別で言ってくるのみならず、同期生会から電報による自決勧告も送っていたとか。・・・
 歩兵第七連隊の留守本部がある金沢の街には早くから空閑少佐が捕虜になったという噂が流れており、身重の夫人が守る留守宅に怒鳴りこんだり、石を投げ込んだりする市民もいたそうです。」
https://oplern.hatenablog.com/entry/2018/02/17/215651

 いかにこのコンセンサスが強力なものであったかは、戦陣訓は陸軍大臣告示なので、海軍には適用がないはずなのに、大東亜戦争劈頭、海軍もまた、「生きて・・・」を当然視していたことからも分かる。↓

 「太平洋戦争における日本人捕虜第1号である、酒巻和男少尉・・・は、小型潜水艇の「甲標的」で真珠湾攻撃作戦に参加しますが作戦途上で人事不省に陥り捕虜となっています。
 当時の日本は既に理由の如何に関わらず捕虜となることは許されない状況となっており、出撃後の酒巻少尉に不名誉な行動などはなかったにも関わらず、捕虜となったことは隠蔽されることとなります。」(上掲)

 この国民的コンセンサスに、戦陣訓は言及して敬意を表わさざるをえなかった、というだけのことだと私には思われる。

(続く)