太田述正コラム#10189(2018.11.13)
<木村光彦『日本統治下の朝鮮』を読む(その14)>(2019.2.1公開)
「総督府<の>・・・人員は著しく増大し、1942年には総数10万人を超えた。
1937年と比較すると50%増で、それ以前の5年間の増加率、27%をはるかに上回っている。
民族別には、内地人が5.7万人(40%増)、朝鮮人が4.6万人(90%増)で、朝鮮人の増加率がより高かった。
このように戦時期、従来以上に多くの朝鮮人が統治機構に参画するようになった。
<また、>総督府は1944~45年度の予算で、朝鮮人官僚の給与水準を引上げ、内地人官僚と同等にした。・・・
<なお、>一般歳出総額に占める治安維持費の割合は低下した。
他方、日中戦争の拡大にともない、1937年9月、日本政府は臨時軍事費特別会計を設置した。
同会計には、総督府特別会計から繰入れが行われた。
朝鮮は併合以来、帝国の軍事費を負担していなかったが、戦時期にその負担が始まったのである。
その額は1945年までに急増した。・・・
<更に、>総督府の鉄道<(注17)>収支は、1930年代後半に黒字化する。
(注17)「朝鮮半島での鉄道は、1894年(明治27年)の甲午改革において日本が李氏朝鮮に対し京城から開港場までの鉄道敷設を提案し、8月20日に日本が李氏朝鮮から「日韓暫定合同条款」に基き鉄道敷設権を得て、鷺梁津(漢江西岸)~済物浦間の鉄道を1899年(明治32年)に開通させたことに始まる。これは後に京仁線となった。続く1905年(明治38年)には京釜線が全通、そして翌1906年(明治39年)には日露戦争の軍事輸送を目的として日本陸軍が一進会の協力を得て京義線を全通させた。また、日本陸軍は軍事輸送の為に兼二浦支線及び馬山浦支線も敷設した。
京釜線・京義線は日露戦争後に日本が得た南満州鉄道(満鉄)への接続を図り、大陸進出の足がかりとしての役目を担うようになっていき、1910年(明治43年)の韓国併合で日本が朝鮮の統治権を得ると、京元線や京慶線・湖南線などを敷設した。また路線数が少なかった1925年(大正14年)まで、朝鮮での鉄道経営を一体輸送を図る目的で南満州鉄道に委託したこともあり、その後は朝鮮総督府[鉄道局]の直轄となった。だが半島北部の一部の鉄道に関しては、大陸との関係が強かったためその後も南満州鉄道の経営として残り、それが1945年(昭和20年)の日本の敗戦まで続いた。
満州事変が勃発し満州国が成立すると、日本から朝鮮・満州への移動が活発になり、関釜連絡船を介して日本からの連絡を担った京釜線・京義線には特別急行列車「あかつき」、急行列車「ひかり」・「のぞみ」・「大陸」・「興亜」などといった優等列車が走った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C%E9%89%84%E9%81%93
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C ([]内)
「一進会・・・は、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した政治結社。・・・日本・・・に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受け<つつ、>日本と大韓帝国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%80%B2%E4%BC%9A
⇒東海道新幹線の「ひかり」「のぞみ」の「起源」は、ここにあったのですね。(太田)
これは、物流が活発化したことから貨物収入が急増し、経常黒字が利子支払いを大きく上回ったためである・・・。
戦時経済の進展はこの点で、総督府財政に恩恵をもたらした。・・・」(110~112、114)
⇒113頁に掲載された総督府の歳入・歳出推移表を見ると、1937年から1945年までの間に、一般歳出は、1431119千円へと10倍近くに増えており、その内の治安維持費を除けば、10倍を大きく超えています。
他方、その外ですが、臨時軍事費・・つまりは、内地財政・・への繰り入れは、同じ期間に、606213千円へと5倍強に増えているけれど、余裕でこれを捻出できていたことが分かります。
いずれにせよ、日本の朝鮮経営は、全体としては、決して持ち出しではなかった、ということになります。
なお、朝鮮と内地、それぞれの物価上昇分を差し引いた上で比較しなければならないけれど、戦時中、朝鮮経済は、(内地以上の?)高度成長を続けた、と思ってよさそうですね。(太田)
(続く)