太田述正コラム#10179(2018.11.8)
<吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』を読む(その6)>(2019.2.2公開)

3 その国民的コンセンサス形成の経緯(仮説)

 このような国民的コンセンサスは、一体、いかなる経緯で形成されたのだろうか。

 まず、明治維新後の最初の戦争の相手の支那がひどかった。↓

 「1894年(明治27年)11月日清戦争の旅順攻略戦の際、・・・日本軍死傷者<の>・・・鼻や耳をそがれた生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊され<るという>・・・陵辱行為<が発生した>。大山巌は「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を発し<たが、>・・・旅順陥落後<、清側に、>基本的に民間人及び戦闘終了後の捕虜、戦闘放棄した者の死傷者<が、200~2000人出た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 「日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋が清国軍の捕虜の扱いの残虐さを問題にし、「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の<下掲の>訓令が「生きて虜囚の辱を受けず」の原型との指摘もある。
敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ。
— 1894年8月13日、山縣有朋、平壌にて・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93 前掲

 また、辛亥革命後の支那では内戦状態が続いたが、それが内戦であったことを考慮しても、国際法の精神や人道に背く、凄惨な事態が支那で頻発し、それを日本の人々が認識していたであろうことは想像に難くない。

 (そのことは、日支戦争勃発後の「1938年6月に、中国国民党軍が日本軍の進撃を食い止める目的で起こした黄河の氾濫で・・・<一般民衆に>犠牲者・・・数十万人<を出した>・・・黄河決壊事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
や、日本の降伏後に再開された国共内戦中の、「中国共産党軍が中国国民党軍以外の約30万人の一般民衆も餓死に追い込<んだ>」長春包囲戦(1948年5月23日~10月19日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%98%A5%E5%8C%85%E5%9B%B2%E6%88%A6
等から、想像できるというものだ。
 1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件直後に発生した通州事件は、日本の人々の間におけるかかる認識を確信へと高めたことだろう。↓

 「1937年(昭和12年)7月29日に<支那>陥落区の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府保安隊(<支那>人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・・・200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が<支那>人部隊により行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 「1937年(昭和12年)12月の南京戦において日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、当時の日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる・・・南京・・・事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1937%E5%B9%B4)
や、1942年2月から3月にかけて、日本軍がシンガポールで5~6000人の華僑を殺害したシンガポール華僑粛清事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%8F%AF%E5%83%91%E7%B2%9B%E6%B8%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6
の背景には、通州事件等に対する報復感情もあったと考えられる。)

 日本の次の戦争の相手は、支那ならぬロシアだった(日露戦争)が、まともだったのと、その次に戦ったドイツ(第一次世界大戦)も同様だったので、欧米諸国はまともである、との認識が日本国民の間で芽生えたが、シベリア出兵におけるボリシェヴィキがひどかったため、「主敵」ロシアが本性を顕わした、と日本の人々に受け止められたようだ。↓

 「シベリア出兵・・・は国家対国家の正式な戦争ではなかった事、日本側の軍人、民間人が虐殺行為を受ける事がしばしばあった事(尼港事件)もあいまって、捕虜の厚遇などは全く見られなくなる。特にボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民からなる非正規軍、パルチザンの存在が兵士たちを困惑させ、時には虐殺行為すら生じた。これが日本軍における捕虜の処遇においての転換点となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E8%99%9C

 このロシア観(ソ連観)は、先の大戦の時に、その正しさが裏付けられた、と言えそうだ。
 すなわち、ロシア(ソ連)も、日本同様、1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99
が、先の大戦では、公式に自国の軍兵に捕虜になることを禁じるとともに、敵国の捕虜を、直接的、間接的に大量に殺害することが再々あった。↓

 「独ソ戦においてソ連は、赤軍将兵に対してドイツ軍に降伏して捕虜になることを禁じた国防人民委員令第270号を発令した・・・
 ソ連によるポーランド軍将校の大量虐殺を枢軸国側の捕虜殺害に転嫁した例すら存在した・・・カティンの森事件・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E8%99%9C 前掲
 <これも、「捕虜」虐待と言えよう。↓>
 「第二次世界大戦の終戦後、・・・武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反<し、>・・・武装解除され投降した日本軍捕虜ら・・・約57万5千人<が、>・・・ソ連・・・によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、・・・厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられ<ない状態で>、・・・長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により・・・約5万5千人が死亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99 前掲
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(続く)