太田述正コラム#739(2005.5.31)
<トランスヒューマニズム(その1)>
(本篇の上梓は5月29日です。)
1 フクヤマの問題提起
(1)始めに
トランスヒューマニズム(transhumanism。http://transhumanism.org/index.php/WTA/faq)という聞き慣れない新思潮を論じるためには、いささか旧聞に属しますが、2002年に上梓された、フランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama。1952年?)(注1)の著書’Our Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution’(邦訳「人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か」ダイヤモンド社2002年)とこの著書をめぐる論争を振り返らなければなりません。
(以下、特に断っていない限り、http://www.fsgbooks.com/fsg/ourposthumanfutureexcrpt.htm、http://www.amazon.com/gp/product/product-description/0312421710/ref=dp_proddesc_0/002-3222218-5348856?%5Fencoding=UTF8&n=283155、http://books.guardian.co.uk/review/story/0,12084,725464,00.html、http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/chronicle/archive/2002/04/21/RV202795.DTL、http://books.guardian.co.uk/print/0,3858,4411712-99939,00.html、http://www.prospect.org/print/V13/10/scialabba-g.html、http://www.kenanmalik.com/reviews/fukuyama_posthumanism.html、http://www.weeklystandard.com/Content/Public/Articles/000/000/001/157sxvdy.asp、http://www.raintaxi.com/online/2002summer/fukuyama.shtml、http://www.brothersjudd.com/index.cfm/fuseaction/reviews.detail/book_id/988(いずれも5月28日アクセス)による。なお、最初の一篇のみがフクヤマ自身の手になるもの。)
(注1)ベルリンの壁が崩れた1989年に「歴史の終り?」“The End of History?"という論文を米国のNational Interest誌に書いて一躍有名になった日系米人であり、現米ジョンズ・ホプキンス大学教授。この論文を発展させたThe End of History and The Last Man(邦訳「歴史の終り」三笠書房1992年刊)は、日本でも読んだ人がかなりいるのではないか。(コラム#133、211、223、587)
(2)フクヤマの主張
この著書でのフクヤマの主張のさわりを私の言葉で紹介すれば、次の通りです。
20世紀を代表する逆ユートピア論といえば、オルダス・ハックスレー(Aldous Huxley)の「素晴らしい新世界」(Brave New World。1932年。コラム#127)とジョージ・オーウェル(George Orwell)の「1984年」(1984。1949年。コラム#508)の二つと相場は決まっている。
前者は生命科学の発達がもたらす暗い未来を描いたものだし、後者は情報科学の発達がもたらす暗い未来を描いたものだ。
しかし、オーウェルの予想の方ははずれた。
オーウェルはテレスクリーン(telescreen)・・今で言えばインターネットにつながっているパソコン・・が実現すれば、完璧な中央集権と専制がもたらされる、と予想したが、テレスクリーンの実現は、全く反対の結果をもたらし、中央集権的専制国家であったソ連が、インターネット社会のとば口に入ったところで早くも崩壊してしまった。
他方、ハックスレーは、人工子宮・向精神薬・遺伝子工学等が実現した場合、「人間」とその「人間」からなる「社会」がおぞましい姿に様変わりしてしまう、と予想した。ハックスレーの挙げた種々の技術については、既に部分的に実現したものもあるが、本格的実現はこれからだ。
従って、ハックスレーの方の予想が的中するかどうかは、まだ分からないわけだが、私自身は、このまま拱手傍観しておれば、ハックスレーの予想は的中してしまうだろうと考えている。
今にして思えば、自由・民主主義の勝利によって歴史が終わった、と私が1989年に指摘したのは間違っていた。
科学がハックスレーの予想したように「人間」自身を変えることができるようになった暁には、変えられた「人間」であるところのポスト「人間」(post human)からなる「社会」の歴史は、全く新たな展開を見せるはずだからだ。
生命科学の最新状況を踏まえて、「人間」と「社会」がどんなにおぞましい姿に様変わりしうるかを再検証してみよう。
第一に、遺伝子工学(genetic engineering)が発達して、カネのある親はIQや運動能力等の高い子供をつくれるようになり、人間社会が少数の超エリートとその他大勢へと二分化されてしまうこと、第二に、同じく遺伝子工学の発達によって、飛躍的な延命が可能となり、先進国が老人ばかりの社会になってしまい、その結果、若者中心の後進国に活力や軍事力で対抗できなくなり、後進国に飲み込まれてしまうこと、第三に、脳神経薬学(neuropharmacology)が発達して、既に存在する抗鬱剤のProzacや抗躁剤のRitalin(注2)等より一層強力な薬ができて、専制国家の支配者が思いのままに被支配者達を操作できるようになること。
(注2)Prozacは鬱で自信喪失した女性に処方されることが多く、Ritalinは躁で自信過剰な青年男性に処方されることが多い。要するに女性も男性も中性化ないし社会適応型化させられるわけだ。これが米国のポリティカル・コレクトネスに合致していることは言を待たない。
これらはいずれも、自由・民主主義の死を意味する。
そこで、こんなことにならないよう、生命科学の発展を規制する必要がある。
規制についての私のイメージは以下の通り。
認められる生命科学の発展は、治療目的(と恐らく能力向上を目的とするもの)だ。幹細胞(stem-cell)研究と胎児の選別は遺伝病対処を目的とするものなら可だが、性格を選別したり能力向上を目的とするようなものは否だ。遺伝子工学は、抜本的ないし無制限なものについては極めて疑義がある。人間のクローン作りは絶対禁止すべきだ。
いずれにせよ、かかる可否の線引きの根拠に宗教を持ち出す必要はない。「人間」の本来的な姿は何かを見極め、これを根拠にすればよい。また、科学の発達に規制をかけることなど成功した試しはない、と冷笑的になることは禁物だ。
(続く)