太田述正コラム#10191(2018.11.14)
<吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』を読む(その7)>(2019.2.3公開)

 「ここで、処置の問題と関連して、傷病兵の治療以外に軍医が果たしている役割について、もう少し触れておきたい。
 具体的には自傷者の摘発である。・・・
 自傷行為に走らざるをえないほど、兵士たちは肉体的にも精神的にも追いつめられていた。・・・

⇒これは、満州事変・日支戦争・大東亜戦争を不正義の戦争と決めつける吉田らの思い込みがもたらしたナンセンスな、というより、無意味な、記述です。
 というのも、例えば、日露戦争の時でも、日本の陸軍兵士達の間で自傷行為は広範に存在したようだからです。(注5)

 (注5)「日露戦争<に>・・・医師として従軍したヴェレサーエフは、兵士の自傷行為について言及しているが、同様の自傷行為は、日本軍にも広く見られたものであったし、召集に際して、残される家族のことを憂うあまり、その家族を手にかけるという悲劇も、ロシア、日本の双方において観察されている。日本兵の勇敢さが指摘されることが多いが、逆に日本側の史料には、ロシアの兵士の私心なき献身的敢闘精神が描かれていたりもするのである。」
http://dep.chs.nihon-u.ac.jp/history/YTHP/test7.html

 日本軍兵士による自国軍兵士の殺害は「処置」だけではない。
 もう一つは、食糧などの強奪を目的とした襲撃である。・・・

⇒飢えに直面したら、そういうことは、軍隊でなくても起こり得るでしょう。(太田)

 なお、軍法会議の手続きを省略した「処刑」(死刑)があったことも付言しておきたい。・・・

⇒本件について、これだけの記述しかしていない吉田の念頭にあったものとは異なる可能性がありますが、下掲を参照。↓
 「太平洋戦争末期の南方戦線は食料の確保さえ儘ならない極限状態だった。食料の確保は各自に任され、部隊に戻れなかった者は軍紀違反を問われ「逃亡者」として見せしめの銃殺刑や「特攻」を命じられ命を絶たれた。英語が堪能な兵士は捕虜になって情報が敵にもれるとして「奔敵未遂」の罪で処刑された。兵士の数が減れば口減らしになるとの考えもあった。
 その遺族たちは戦後も「逃亡兵の遺族」として遺族年金が支給されるようになった1970年以降も、隠れるように暮らしている。その名簿は各地の護国神社もないし、英霊としての名誉もない。靖国神社に合祀されたA級戦犯との違いに愕然とする。
 ・・・極限状態の戦場で軍法会議の審判役を努めた法曹資格者<は、>・・・裁判を省略し書類も作らなかった。「作っていたら戦犯」だという。終戦直後、関係者は内部資料を処分し、証拠隠滅を行ってもいる。
 更に、それらの法曹関係者は戦後の司法界で重要な地位を得、その為に戦時中の事実解明が憚られる。」
http://d.hatena.ne.jp/kitanoyotaro/20131009 (太田)

 1940年からは、日中戦争の戦費節減と「現地自活」方針が強行されていた。
 そのため、現地軍は前年比で3割の戦費節減をよぎなくされていた・・・。
 「現地自活」の強化は、すでに 常態化していた中国民衆からの略奪をいっそう強化することを意味した。・・・」(74、77)

⇒このくだりの記述は、実態から大きく乖離するものではないとはいえ、形の上では略奪ではなく、軍票(注6)による買い上げであったことを、少なくとも吉田は記すべきでした。

 (注6)「1907年に締結されたハーグ陸戦条約で、条約締結国は戦時下の占領地で徴発する行為が禁止され、同条約第52条に「現品を供給させる場合には、住民に対して即金を支払わなければならない、それが出来ない場合には領収書を発行して速やかに支払いを履行すること」とされ、現金もしくは軍票で代償を支払うこととされた。 ・・・
 第二次世界大戦の敗戦国である日本の場合、かつて戦時国際法上、個人に対する戦争被害を敗戦国が補償する義務がなく、また連合国側が軍票の支払い義務を免除したため、後に国際問題になった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E7%94%A8%E6%89%8B%E7%A5%A8

(続く)