太田述正コラム#10195(2018.11.16)
<木村光彦『日本統治下の朝鮮』を読む(その16)>(2019.2.5公開)
「マルクス主義思想は我国思想界に一大衝動を与え、政治、経済、文化の各層に未曾有の影響を与えた。
その思想は我国の有識階級の間に浸潤瀰漫(びまん)し、其(その)革命理論は科学的なるものとの印象を与え……一部分子には最も権威ある改造理論として考えられ狂信せられた。
又一方右翼分子に至るまでマルクス主義を否定しながら、其国家改造論に於て多分にマルクス主義の影響及び支配を受け、其極右なるものの如き極左を隔つること僅(わずか)に紙一重と見られるものすら少なくない。
(宮崎『東亜聯盟論』124頁、原文を現代かな・漢字に修正)
戦時末期、日満財政経済研究会は独自の国家改革案を構想し、一部軍人の賛同を得た。
それは農業集団化を含み、共産主義とはほとんど異ならなかった。
反共的国家主義は、過激になるほど共産主義との類似性を増したのである。・・・
⇒戦前に活躍した宮崎はともかく、現代に「活躍」する木村に言いたいのは、皆さん想像がつくと思いますが、マルクス主義とマルクス・レーニン主義(スターリン主義)とは峻別されるべきだ、ということです。
明治維新以来の弥生モードに反撥した日本の縄文モード(人間主義モード)回帰追求者達が、人間主義回帰を追求しているところのマルクス主義の核心部分を「狂信」したのは自然なことでしたし、有事意識に基づき、総動員体制の構築を追求していた日本の軍人達、とりわけ陸軍の軍人達、が、戦争から生まれ、恒常的に敵対勢力に囲まれ続けることによって、ある意味、究極的な総動員体制を構築したところの、スターリン主義のその部分を「狂信」したのもまた自然なことだ、ということも・・。(太田)
<従って、>戦時・戦後北朝鮮は、全体主義イデオロギーの点で連続していた。
南では米軍政が帝国日本の全体主義の解体、自由主義(および民主主義)の移植・奨励を図り、その後、基本的に同様の考えをもつ李承晩(米国で高等教育を受けた反共自由主義者)が政権を担った。
これは統治理念の全面的な転換がはかられたことを意味する。
この転換は、南の脱植民地過程が北に比べてはるかに大きな混乱をともなった基本的な要因である。・・・」(178~180)
⇒木村は、自分が何を書いているのか、果たして分かっているのでしょうか。
この伝で行けば、「脱植民地過程」を「脱軍国主義過程」とでも置き換えれば、日本の戦後「転換」にもそのままあてはまるはずです。
一体それは、どんな「大きな混乱をともなった」んだったですかねえ。
更に言えば、戦時中「余裕」のあった米国はともかくとして、戦時中の(自分自身が戦後留学したところの)英国が、どんなに「全体主義」的であった(コラム#省略)かを、木村は知らないのでしょうか。調べようともしなかったのでしょうか。
強いて言うならば、北朝鮮は、独立後も戦時体制を継続した、といったところでしょう。
また、南朝鮮で大きな混乱が続いたのは、政治ガバナンスが未成熟のまま、一挙に民主化したが故でしょうね。(太田)
(続く)