太田述正コラム#10213(2018.11.25)
<吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』を読む(その11)>(2019.2.14公開)
「<ちなみに、>参謀総長や軍令部総長は、・・・各軍の司令官や連合艦隊司令長官は天皇に直属し<ているので、>・・・天皇が発する最高統帥命令・・・を各軍司令官や連合艦隊司令長官に伝達し、その命令の範囲内で指示を与える権限を持っているにすぎない。
参謀総長や軍令部総長は大元帥としての天皇を補佐する最高幕僚長であり、天皇からあらかじめ委任を受けない限り、基本的には自ら命令を発することはできない・・・。・・・・
参謀総長と軍令部総長は、作戦計画に関しては、作戦軍司令官や連合艦隊司令長官に対して区処<(注10)>権を持つとされているが・・・、その実態は判然としない。
(注10)「隷下とはある指揮官に統率・経理・衛生等において隷属する状態にあること。指揮下とは隷属関係に無くても軍隊区分により、他の指揮官のもとに配属されて「命令」を受けている状態にあること。 指揮関係は隷属関係の限定された一部である。区処下とは自己の命令系統外の指揮官の「指示」を受けること。 (両者は指揮関係にないので「指示」という形をとるが実質的には「命令」)・・・
統帥権は天皇の大権であるので、参謀総長は隷下の部隊(少数だが存在する)に対して以外は「命令」できず、「指示」の形をとる」
http://www.fontessa.info/term.html
区処権とは指揮隷属上の命令権はないが、特定事項に関して指示する権限を持つことを言う。
あるいは、この区処権は<上述し>た「細項」に関する指示権のことかもしれない。
昭和天皇自身も、両総長の権限を正確に理解していたようだ。
日中戦争中に天皇の侍従武官を務めていた元陸軍中将の清水規矩は、次のように述べている。
陛下のお考えとしては、”国務については、輔弼の[国務]大臣があるので、これを重んずるが、・・・純統帥については、おんみずからが最高の責任[責任者か]であるとのお考えであらせられたものと拝察申しあげるのである。・・・」(157~160)
⇒1975年10月31日、日本記者クラブ主催の公式記者会見の席上、昭和天皇は、戦争責任について問われ、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。」と、また、広島の原爆被災について問われ、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」と答えた。
https://s3-us-west-2.amazonaws.com/jnpc-prd-public-oregon/files/opdf/120.pdf
「元侍従の小林忍氏(故人)が日記に<次のように>書き残してい<る>・・・。
75年11月24日の欄には、同22日の侍従長の話として、「訪米、帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており、自信を失っておられる」・・・
<また、>87年4月7日の欄に「昨夕のこと」として・・・昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018082300772&g=ryl
自身、軍の運用(真珠湾攻撃や広島防空)について「最高の責任」を自覚していた天皇が、終戦後、責任を認めることを「禁じられ」たことが、どれほどのトラウマになっていった、想像するに難くありませんね。(太田)
(続く)