太田述正コラム#10215(2018.11.26)
<吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』を読む(その12)>(2019.2.15公開)
「欧米列強の軍隊と比較してみると、日本資本主義の後進性が軍備の増強や近代化にとって大きなマイナス要因となっていることがわかる。
第一には兵力動員と労働力動員との競合関係がより深刻だったことがあげられる。
労働生産性の低い日本の工業技術水準では、多数の熟練労働者を労働現場に確保しておく必要があった。
労働集約的な零細農業が支配的な農村でも多数の農業労働力を必要とした。
そのため、兵力動員と労働力動員との間に深刻な競合関係が生まれ、結果として、総人口中に占める動員兵力の割合は列強と比較して低い水準にとどまった・・・。
ドイツと比較してみると、日本の場合、男子人口に占める軍人の割合は、1930年が0.7%、1940年が4%、1944年が10%である。
これに対してドイツは、1939年が3.6%であり、1943年には28%にも達している・・・。」(174~175)
⇒「日本資本主義の後進性」と動員率の低さとは、下掲からも分かるように、基本的に関係がないのであって、この吉田の主張も、遺憾ながらナンセンスに近い、と言うべきでしょう。↓
「徴兵制の完成度は成年男子の総数に対する訓練済み予備役兵士の比率で表される。訓練率と呼ばれるもので、第1次大戦前の独仏両国では6割以上に達していた。これに対し、日本は1935年まで2割を超えることがなかった。2割はイギリスなど志願制をとっている国と大差がな<かった。>・・・
日本陸軍は1925年に17個に削減した常備師団を、1937年の日中戦争開戦から太平洋戦争開始までに49個に増加させたが、第一次世界大戦において独仏両国は半月足らずで80個師団を動員し戦線に投入した。日本は1914年時点で既に独仏両国の人口を上回っており、人的資源面から見れば師団増強は容易であるにも拘らず、日本の師団増強は遅々としていた。
動員が軍事的意味を持つのは、平時の徴兵人口を多く保っている場合である。これは、数年の徴兵人数増強で達成できるわけではない。日本の訓練人口は上記のようにドイツなどに比べると圧倒的に低かったが、むしろ、日中戦争という戦時下においても、師団増強のための訓練よりも師団の装備充実やその維持のための財源捻出を念頭に置かなくてはならなかったことが原因である。・・・
日独はかなり遅い時期まで総動員をかけなかった。第二次世界大戦のドイツが総動員をかけなかったのは経済への打撃を恐れた他、電撃戦を遂行するための機甲軍は動員によっては充足できなかったからだろう。・・・
第二次世界大戦において、ナチス・ドイツの電撃戦によってポーランドは動員を完了する前に降伏に追い込まれ、太平洋戦争において日本の航空攻撃が動員によらない職業軍人の精鋭軍が敵国を攻撃・侵攻できることを示した。これらの事例や、第二次世界大戦後の軍事技術の発展によって、徴兵によって数年訓練を受けただけの素人が軍隊の中核を担うのが困難であるという見方が主流になり、現在ほとんどの国家は職業軍人だけで軍隊を形成している。総じて、大規模な動員や総動員が行われたのは19世紀後半から20世紀前半までとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E5%93%A1
事情が異なるところの英国や米国のような海洋国家の諸軍隊はともかくとして、それ以外の諸軍隊・・日本も当時は大陸国家でした・・の中では、第二次世界大戦初期において、基本的に高練度のプロ兵士達によって編成されていたところの、日独両軍がむしろ先駆的だったのであり、そういうこともあって、ポーランドやフランスは破れ、ソ連もレンドリースがなければ破れていた、のです。
そのドイツの動員率が高まったのは、国内戦が予見されるようになった1943年7月の米英軍のシチリア島上陸とソ連軍の反攻開始
https://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II#Axis_advance_stalls_(1942–43)
以降であると考えられ、1944年[7月]の国民擲弾兵(Volksgrenadier)の編成
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%93%B2%E5%BC%BE%E5%85%B5
や同年9月25日の国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)の編成
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%AA%81%E6%92%83%E9%9A%8A
で、それが行き着くところまで行った、ということでしょう。(太田)
(続く)