太田述正コラム#10217(2018.11.27)
<吉田裕『日本軍兵士–アジア・太平洋戦争の現実』を読む(その13)>(2019.2.16公開)
「第一次世界大戦は、・・・軍馬に代わって・・・軍用・・・自動車の大量使用という面でも大きな画期となった。・・・
しかし、日本では、自動車産業そのものが未発達だった。
1936年の時点でみてみると、アメリカの自動車生産台数は年間で446万1462台、イギリスが46万1447台、ドイツが27万1000台、これに対して日本は、わずか1万2086台にすぎない。・・・
このため、軍でも物資の輸送にあたる輜重兵連隊や偵察にあたる捜索連隊などで自動車が導入されたが、アジア・太平洋戦争の開戦後も輸送の中心は依然として軍馬だった<(注11)>・・・。・・・
(注11)「外資系企業による日本の自動車産業の独占を危惧した政府は、自動車製造事業法(1936年)を制定し、国内自動車産業の本格的な育成に乗り出した。この流れを予測していたトヨタは1933年に、日産は1934年に自動車産業への本格的な進出を開始し、日中戦争、太平洋戦争における日本の軍用トラック生産の大半を任されるようになり、戦後の日本自動車産業の本格的な発展の準備となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E7%94%A3%E6%A5%AD
⇒吉田のように旧軍悪玉論に立ってあらゆることを旧軍をこき下ろす材料として用いようとするより、「注11」のように、客観的というか、是々非々というか、的な見方をした方が、戦後史を戦前史にうまく繋がった形で説明できる、と思うのですがね。(太田)
機械化の立ち遅れによって不利な戦闘を強いられた典型的な事例としては、飛行場の設営能力があげられる。
特に、1942年から43年にかけてのソロモン諸島やニューギニアの航空戦では、米軍のブルドーザーやパワーシャベルなどの土木機械を駆使して必要な地点に一週間内外で飛行場を建設したのに対し、日本軍は人力主体の設定方式に依存し、飛行場の完成までに一か月から数か月もかかった・・・。・・・
⇒当時の後発産業国日本に対するないものねだり、以外の何物でもありますまい。
なお、「日本では、戦時中に少数のブルドーザが小松製作所により、また「ショベル(バックホウ<(油圧ショベル)>ではない)」も少数が神戸製鋼所、日立製作所などで生産されていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E6%A9%9F%E6%A2%B0
ところです。(太田)
<また、帝国>陸軍は通信の必要性に関する認識がきわめて低く、動員師団や内地の師団に師団通信隊が編成されるようになったのは、日中戦争以降のことだった・・・。・・・
陸上通信には有線通信と無線通信の二つがあったが、問題は陸軍があくまで有線通信を重視したことである。・・・
通信機器のもう一つの問題は、米軍と違って、片手でも保持が可能な携帯用小型無線機(ハンディートーキー)を持っていなかったことである。・・・」(181~182、188、191~192)
⇒上と同じ。
「世界大戦中、数多くの世界的なレベルの研究成果<が・・。例えば、>松前重義の無装荷ケーブル、八木・宇多アンテナ、武井武のフェライト」
http://www.jtec.or.jp/activities/report/pdf/2008-2kouenkai_tominaga.pdf
(完)