太田述正コラム#747(2005.6.8)
<トランスヒューマニズム(その2)>
(本篇は、上梓が6月6日であり、コラム#739の続きです。)
3 フクヤマ批判
(1)始めに
それでは、以上のようなフクヤマの主張に対する批判を行ってみましょう。
(以下、特に断っていない限り、冒頭に列挙した典拠のほか、http://news.ft.com/cms/s/c7eb8502-cda3-11d9-9a8a-00000e2511c8.html(5月28日アクセス)を参照しつつ、適宜私見を織り交ぜた。)
(2)米国の社会通念の代弁者
最も根底的なフクヤマ批判は、彼の主張は一貫して米国の社会通念の代弁以外のなにものでもない、というものです。
つまり、彼の「歴史の終わり」論が、米国がもたらしたソ連の崩壊へのオマージュ(献辞)だったとすれば、彼の「人間の終わり」論は、米国を席巻しつつあるキリスト教原理主義的人間観へのオマージュなのだというのです。
「歴史の終わり」論を書いた当時は、フクヤマは米国務省の役人であり、「人間の終わり」を書いた頃からは、フクヤマはブッシュ大統領の生物科学倫理委員会(Council on Bioethics)biotechnology advisory council)の委員を務めていることが思い起こされます(http://www.leighbureau.com/speaker.asp?id=73。6月3日アクセス)。
中国系米国人であるウー(Frank H. Wu)米ハワード大学教授は、アジア系米国人の「多くは、年長者への敬意、伝統への忠誠、紛争の回避、といったアジア的諸価値を内面化しており、社会の中で言挙げすることは物議をかもし、賢明ではないとして避ける」と指摘した上で、例外的に言挙げするアジア系米国人がいないわけではないけれど、その場合でも言挙げする内容は体制順応的であるとし、その典型例として、日系米人であるフクヤマが、西側世界の自由・民主主義の勝利を称えたことを挙げています(http://yellowworld.org/academia/226.html。6月3日アクセス)
。
結局、フクヤマは若干声高ではあるものの、典型的なアジア系米国人の一人だと言ってよさそうです。
これだけでは身も蓋もないないので、私見を適宜織り交ぜつつ、もう少し具体的にフクヤマの「人間の終わり」論の批判を行ってみましょう。
(2)具体的批判
ア 浅薄な歴史観
「歴史の終わり」論が、アルカーイダ系テロリストの出現によってゆるがされ、更にフクヤマ自身の「人間の終わり」論によって、その前提が突き崩されたように、今度の「人間の終わり」論も、歴史の進展に伴ってゆるがされ、突き崩される可能性が大いにありそうです
要は、歴史は歴史自身の審判に委ねるべきであって、軽々しく予言などすべきではないのです。
(以上、http://www.raintaxi.com/online/2002summer/fukuyama.shtmlによる。)
実際、高齢化について言えば、過去2世紀で人類の平均寿命は2倍になったけれど、そのために人間社会に大きな変化が生じたとは言えませんし、中性化について言えば、20世紀初頭に大きく女性の権利が伸張したにもかかわらず、人類は少しもおとなしくならなかったどころか、20世紀は暴力の荒れ狂う時代となったことはご承知の通りです(http://www.kenanmalik.com/reviews/fukuyama_posthumanism.html)(注3)。
(注3)現代の日本は、世界の最長寿国であると同時に最中性化国であり(コラム#276)、また、日本人はIQもユダヤ人と並んで世界最高レベルであると考えられる(コラム#538)ことから、フクヤマの逆ユートピア世界におけるエリートの地位を生命科学等の力を借りずして実現していることになる(?!)。
イ 人間中心主義的偏向
フクヤマ自身、自分はヒューマニズムの立場に立っていると言っていますが、ヒューマニズムはルネッサンスに由来する人間中心的な思想であり、実のところは、世俗化されたユダヤ・キリスト教的な思想なのです。つまりヒューマニズムには、人間は神によって神に似せてつくられた存在であり、動植物等の人間以外の生命体とは画然と区別される特権的存在である、というユダヤ・キリスト教的な思想が受け継がれているのです。
このような思想に立脚すれば、人間が人間を改造する、ということは(神に対する冒涜であって)許されない、ということにならざるをえません。
しかし、農業の歴史が始まってからというもの、人間はたゆみなく、自分達にとって有用な植物や動物の品種改良に努めて現在に至っているのであって、動物の中で人間だけは「品種改良」の対象外である、という風に考えることは、余りにも傲慢ではないでしょうか。
(以上、http://books.guardian.co.uk/print/0,3858,4411712-99939,00.html前掲、を参考にした。)
ウ ピューリタン的偏向
ProzacやRitalinをいかにもおどろおどろしい存在であるかのようにみなすフクヤマの考え方は、ピューリタン的な嗜好品への禁忌という米国特有の考え方に由来しています。
しかし、こんな考え方は、人間の種としての頑健さを踏まえれば、雲散霧消してしまいます。
何せ、人間はずっと酒やタバコ、更には薬を飲んで、その精神状態を調整してきたけれど、だからといって、種としての人間がそのために堕落したとか弱くなったということはありません。ですから、ProzacやRitalinはもとより、それらよりも強力な向精神薬が今後どれだけ登場しようと、種としての人間は、容易に堕落したり弱くなったりすることはないはずです。
(以上、ガーディアン上掲による。)
エ 反近代主義
人類の歴史は、近代化を押しとどめることは決してできないことを示しているにもかかわらず、フクシマはそれが可能だと思っているようです。
科学が核分裂や核融合の原理を解明してからというもの、人類は一方で原子爆弾や水素爆弾を生み出し、他方で原子力発電を実現し、更に核融合の平和利用の研究を推進してきました。核分裂や核融合の「悪用」の危険性があるからと言って、核分裂や核融合の利用についての研究開発を凍結しようとしても、不可能であったはずです。
同様のことが、生命科学等についても言えます。
生命科学等の利用についての研究開発を凍結することは不可能であって、後は人類が、生命科学等を「悪用」しないこと、「悪用」しても人類にとって致命的な形で「悪用」しないことを祈ることしか、われわれにできないのです。
(以上、http://www.weeklystandard.com/Content/Public/Articles/000/000/001/157sxvdy.asp前掲、を参考にした。)
(注2-2)フクヤマがソ連を例に挙げて、インターネットの登場に係るオーウェルの予想ははずれたとしたこと自体、いかがなものか。中共当局が、インターネットの普及をその独裁体制の危機と考えていないどころか、インターネットを「活用」して反日行動を思いのままに操ったことは記憶に新しい(コラム#694)。