太田述正コラム#10223(2018.11.30)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その1)>(2019.2.19公開)

1 始めに

 毛沢東の邦語ウィキペディアの下掲↓箇所は、毛の日本軍との「協力」を描いていますが、その典拠に当たる必要性を感じていました。

 「1937年7月7日に始まった日中戦争(当時の日本側呼称:支那事変)では抗日戦線を展開、国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。しかし、日中戦争において日本軍と交戦したのは主に国民党軍であった。共産党側は、朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は日本軍と国民党軍の交戦を傍観し、戦力を温存して、共産党支配地域の拡大に傾注したのである。この時期、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。なお毛がまとめた『持久戦論』では日本軍の戦略を「包囲は多いが殲滅が少ない」と批判している。毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。。
 毛沢東は裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた。延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していた。また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていた。中共指導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた。毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次大将総本部隷属の人物であった。 ・・・
11. 謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』(坂井臣之助訳、草思社)。
12. 金文学『「反日」に狂う中国 「友好」とおもねる日本』祥伝社、2004年、55頁。金文学「毛沢東は日本軍と共謀 阿片で巨利!」『歴史通』2013年1月号 [要ページ番号]
13. 金文学「毛沢東は日本軍と共謀 阿片で巨利!」『歴史通』2013年1月号」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

 そこで、謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』から始めることにしました。
 謝幼田(1940年~)は、「四川省生まれ・・・80年、中国社会科学院の研究員に合格。四川省社会科学院副研究員を経て、87年に渡米。2005年までスタンフォード大学フーバー研究所客員研究員[・・・専門は中国古代史]」(奥付。[]内は237頁)という人物です。
 原著は2002年に上梓された漢語本であり、私が入手したのはその抄邦訳です。

2 閑話

 本題に入る前に閑話を。
 毛沢東の邦語ウィキペディアを読み返していたら、新しき村への言及部分(コラム#7989)がなくなっていることに気付きました。
 ネットで調べると、下掲 
http://yutopiakenkyu.hatenablog.com/entry/2016/08/18/215521
で言及されていますが、これは、前からネット上に存在している資料であり、拠っているのが、当時の毛沢東の邦語ウィキペディアであった可能性がありますし、そもそも典拠が全くついていません。
 その一方で、新たに、下掲部分が邦語ウィキペディアで言及されていました。↓
 「体育の研究(たいいくのけんきゅう、原題:体育之研究)は、1917年に毛沢東によって著された論文の名称。雑誌『新青年』に掲載された。毛沢東は当時湖南省立第一師範学校に在学中の学生で、発表した最初の論文であった。
 体育が精神と肉体にいかなる影響を及ぼすか、そして動くことによって身体の各部位を鍛えることの重要性が説かれていた。かつての中国においては、体操を含めて人間が身体を動かすということは下品であると考えられていたことから、毛沢東の体育の研究は画期的であった。この論文は、岩波書店から出版された『新編 原典中国近代思想史 第4巻』に収録されている。
 この論文の中で、毛沢東は嘉納治五郎の創始した柔道やその理念を評価している。毛沢東が湖南省立第一師範学校で教えを受けた楊昌済は、嘉納の推薦で東京高等師範学校に留学した経験があった。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E8%82%B2%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6
 従って、青年毛が日本フェチであったことは動かないと思いますが、それにしても、新しき村言及部分の削除は気になります。

(続く)