太田述正コラム#10229(2018.12.3)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その4)>(2019.2.22公開)

 「「九一八<(満州事変)>」が起こるや、ソ連と中共は直ちに抗日を煽った。
 中国共産党の魂は外から来たものである。
 つまり、それはマルクス・レーニン主義を指導原理とし、階級闘争を煽るソ連文化に根ざしたものであり、「仁」を中核とする調和のとれた中華文化の精神とうまくいくはずがない。

⇒(「仁」概念そのものの問題性はさておき、この「仁」を中核とする)儒教が国教化されつつも必ずしも実践されてこなかったのが支那(コラム#省略)であり、著者が、このような「理想」、と、「現実」のスターリン主義とを対置させることはナンセンスです。(太田)

 中共の組織活動はソ連の直接指揮を受け、全世界の共産党員と同様、ソ連を彼ら(プロレタリアート)の祖国とした。
 これは中国人の基本的利益と相いれないものである。

⇒著者は、ここでは、突然、公定中共史とは異なった、というか、史実に反する主張を、しかも、今に始まったことではないとはいえ、典拠なしに行っています。
 毛沢東は、党内の「ソ連の直接指揮を受け」ていた勢力との党内闘争に勝って党の最高権力者の座に就いた<(注3)>というのに・・。(太田)

 (注3)「1935年1月15日から1月17日、その後の行軍方針と戦略を決定する遵義会議が開催され、この中で従来の共産党指導者であった秦邦憲、オットー、周恩来が批判の対象となった。周恩来は自らの過ちを認めて朱徳らと共に毛沢東を支持し、毛沢東が政治局員のリーダーに選出された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81

 中共中央は、<国民政府軍が日本軍と停戦状態にあった1934年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
4月20日に、>以下に述べるように、ソ連の利益に合致するが中華民族にとっては不利となる一連の文書を出しただけでなく、さらにこの文書の精神にもとづいて国民政府転覆のために多くの多くの軍事行動を起こした。<(注4)>

 (注4)「共産党の実質的最高指導者であった秦邦憲はコミンテルン<・・要するにソ連(太田)・・>より派遣された軍事顧問オットー・ブラウン(中国名:李徳)の提言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。周恩来・鄧小平・毛沢東らは、圧倒的優位な包囲軍に対して塹壕戦を展開するのはあまりに無謀であると反対したものの、党中央の決定は覆ら<なかった。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81 前掲

 これらの行動は抗日の旗印を掲げていたが、日本軍に対しては、一発の銃弾も撃たず、逆に日本軍と正面から戦っていた国民政府は背後から再三にわたって襲撃を受けることになった。・・・

⇒国民政府軍が「日本軍と正面から戦っていた」という表現は理解不能です。
 第一次国共内戦(1927~37年)の時期には、満州事変勃発から塘沽協定の締結まで(1931~33年)の間を除き、国民政府軍と日本軍は戦ってはいませんでした(上掲)し、また、日本軍と戦っていた1931~33年の間ですら、「蒋は抗日より中国共産党の掃討が大事として掃討作戦を優先し、強化した。つまり蒋介石は日本に対しては宥和的な姿勢で臨みつつ、共産党に対して激しい攻撃を加え<てい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%86%85%E6%88%A6
のですからね。(太田)

 彼らの行為は中華民族の苦難と危機を倍加させ、日本の侵略に有利に働いた。
 これは数十年後に、中央の元帥や高級将領<(しょうりょう)>(将官とも言う。軍隊の位階。階級で言うと、准将、少将、上将<(注5)>、大将、及び元帥)たちの回想録で初めて明らかにされたことである。

 (注5)「近代以降の中国では日本軍の影響が強かった満州国軍も含めて大将に相当する階級呼称として上将の名称を用いる。人民解放軍に大将という階級が置かれたことがあるが、同時に上将も置かれており、・・・上級大将に相当するものである。・・・
 上級大将が設けられている場合の「大将」とは准将を置く国の中将に相当する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B0%86

 彼らは1934年4月20日、・・・同時に二つの文書を出した。
 一つは公開文書の「中国人民の対日綱領」であり、もう一つは「中央が各省委員会、市委員会にあてた最重要の秘密指示書簡」である・・・。」(22、31~32)

(続く)