太田述正コラム#10231(2018.12.4)
<人間主義再考(その1)>(2019.2.23公開)
1 始めに
八幡市講座用資料支援グループに加わっていただいている、読者の文十郎さんから、人間主義の定義について聞かれた時、そう言えば、きちんと考えたことがなかったな、と猛反省し、その時、頭の中を駆け巡った様々なことを、ある程度筋道を立てた形でご披露しておきたいと思います。
なお、その折、私が、定義らしいものをひねり出したことはご承知のとおりであるところ、このシリーズを執筆した結果、更にそれを修正する必要が生じないことを祈るばかりです。
2 人間主義再考
(1)釈迦の思想
釈迦は悟ったわけですが、この悟りとは、本来の自分であるところの人間主義者に回帰すること、と私は解しているわけです。(コラム#省略)
しかし、果たして、悟りについて、釈迦もまた私と同じ認識であったのでしょうか。
まずは下掲に目を通してください。↓
「釈迦入滅後<の>・・・原始仏教の時代には・・・誰でもが悟れるのか、あるいは一部の人しか悟れないのか<という>・・・議論が起こった。
部派仏教<(小乗仏教)>では、<悟ることができるのは一部の人だけだとされた。>・・・
<それに対して、>大乗仏教では、・・・一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)<・・誰でも悟れる・・>と説く宗派が出てきた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7
釈迦は、全ての人間に人間主義性が潜在しているかどうか、確信が持てなかった可能性が窺われますね。
次に、下掲に目を通してください。↓
仏教の五戒の一つに不殺生戒・・生き物を故意に殺してはならない・・がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%88%92
「衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと<である>・・・六道<中、現実の生き物が生息するのは、人間道と畜生道だけだが、>・・・畜生道は牛馬など畜生の世界である。・・・他から畜養(蓄養)されるもの、すなわち畜生である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93
「涅槃図<は、>・・・釈迦の涅槃を描いた図で,涅槃会(ねはんえ)に用いられる。ガンダーラ美術以来仏伝図の一主題として描かれた。沙羅双樹の下に横たわる釈迦を囲んで諸菩薩をはじめ一切の生類(しょうるい)・・鳥獣・・が嘆き悲しむさまと,摩耶夫人(まやぶにん)が天界から降下する姿が普通の構図である。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B6%85%E6%A7%83%E5%9B%B3-111500
釈迦は、人間主義の対象・・その気持ちを汲んで人間が自分の言動を律さなければならない対象・・は、人間の他は動物だけ、と考えていたらしいことが窺えます。
これに対し、日本の仏教はどうでしょうか。↓
「現在の日本仏教では、法相宗などの一部の宗派を除き、<一切衆生悉有仏性どころか、草木国土悉皆成仏>を説く宗派が多勢を占めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7 上掲
「草木国土悉皆成仏<とは、>・・・草木や国土のような心識をもたないものも,すべて仏性を有するので,ことごとく仏となりうるという意味の成語。《涅槃経(ねはんぎよう)》の〈一切衆生,悉有仏性〉の思想を基盤とし,生命をもたない無機物にもすべて〈道〉が内在するという道家の哲学を媒介として,六朝後期から主張され始めた<支那>仏教独自の思想であり,天台,華厳などで強調される。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%89%E6%9C%A8%E5%9B%BD%E5%9C%9F%E6%82%89%E7%9A%86%E6%88%90%E4%BB%8F-89720
つまり、日本の現在の仏教は、その大部分の宗派が、エコロジー(注1)的視点に立って、人間を含む生きとし生けるもののみならず、この生きとし生けるものにとって不可欠な自然環境、に配意すべきである、としているわけです。
(注1)「エコロジー<とは、>・・・人間生活と自然との調和などを表す考え方である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC
これは、日本の仏教が、下掲↓のような、神道<(注2)>の影響を強く受けているからであると考えられますが、その神道は、日本人、より正しくは縄文人、の人間観、世界観を反映しているところ、人間主義の何たるかを我々に示唆してくれています。
(注2)「神道において、神とは魂・精霊・命・御霊(みたま)と表現も意味も様々であり、定義づけることなく包摂し享受してきた経緯から巨石や樹木、山や森等の森羅万象が神体または、御霊代・依り代として存在する。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%93
さて、以上からして、釈迦の思想は人間主義の思想であると言えるのでしょうか、それとも言えないのでしょうか。
私は、人間主義の思想であると言える可能性が高いと思っています。
というのも、第一に、釈迦が悟らせることに失敗した弟子がいたであろうところ、それは人間主義性の本来性を否定するものでは必ずしもないこと、第二に、釈迦の時代には(菌類はもとより、)植物すら、それが生き物であるという認識が生まれていなかった可能性があること、第三に、インドの自然環境が長い夏における酷暑等、人間にとって過酷なものであったことから、釈迦・・この世の中に生まれてくること自体を「苦」とした
https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E8%80%81%E7%97%85%E6%AD%BB-533769
ことを思い起こしてください・・を含む、インド亜大陸の人々が、現在に至るまで、自然に親しみを覚えられなかった可能性が高い(注3)こと、つまり、釈迦は、経験、時代、及び、環境、という制約の下で悟りないし人間主義を捉えざるをえなかった、と考えられるからです。
(注3)インド亜大陸に、内発的な(叙景詩を含む)作詩の伝統がなかったように思われる
https://en.wikipedia.org/wiki/Indian_poetry
ことが、このことを強く示唆している。
一人屹立する、ノーベル文学賞受賞詩人のタゴール(1861~1941年)は、私見では、やはり、彼が受けた教育
https://en.wikipedia.org/wiki/Rabindranath_Tagore
一つとっても英国人もどきであって、イギリス詩の影響を強く受けたことによる突然変異である、と、私は見ている。
いずれにせよ、彼の代表作7つ
https://www.poemhunter.com/rabindranath-tagore/
に目を通しても、叙景詩的な要素のあるものは皆無だ。
(続く)