太田述正コラム#7532005.6.14

<義和団の乱(その2)>

                     

3 面白いと思ったこと・私の感想

 (1)面白い(interesting)と思ったこと

  ア 英語の典拠のみによる歴史読本

 義和団の乱が支那を舞台に支那人との間で起こった出来事であり、しかも連合軍の主力が日本軍であったにもかかわらず、基本的に英語で書かれた一次、二次文献だけに依拠してこの歴史読本を書いた(注3)ことについて、著者は全く気にしていないようです。

 (注3)典拠として列挙されている書籍(出版されていないものを含む)約180冊中、フランス語のものが5冊あるほかは、日本語及びドイツ語から英語への翻訳書がそれぞれ1冊列挙されているだけだ。なお、支那人とおぼしき人物による英語本が2冊列挙されている。

 英語文献だけで済ませたのは、彼女が英語以外恐らくフランス語しかできないことが最大の原因でしょうが、彼女がそもそも、アングロサクソン以外の人間が書いたものは、信用しておらず、あえて時間やカネをかけて収集整理する価値はないと思っている可能性がなきにしもあらずです。

 ともあれ、われわれ非アングロサクソンとしては、極力英語で発信することに心がけなければなりますまい。

  イ 宗教戦争としての義和団の乱

 義和団の乱について、改めて認識させられたのは、これが排外戦争であるのはもちろんですが、それと宗教戦争が重なり合っていた、ということです。

 宗教戦争でもあった、というのはほかでもありません。

 義和団がキリスト教聖職者・宣教師(以下、「聖職者等」という)やキリスト教の教会を襲っただけではなく、支那人キリスト教徒を襲い、他方で支那人キリスト教徒達は、北京の公使館(legation)地区等に逃げ込んだだけでなく、その少なからぬ部分が外国人達とともに義和団と戦い、あるいは外国人達の伝令やスパイとして活躍した(注4)、ということです。

 (注419世紀末には、支那には70万人の支那人のカトリック信者がおり、850人以上の大部分がフランス人であるところの聖職者がいた。また、8万5,000人の支那人のプロテスタント信者がおり、28,000人の宣教師がいた。

義和団の乱の間に、地方では外国人聖職者等とその家族約200人が殺害されるとともに、何万人もの支那人キリスト教徒が殺害された。天津の国際港地区では外国人約600人と支那人キリスト教徒約4,000人が一時孤立した。北京の公使館地区には外国人915人(軍人442人を含む)と支那人キリスト教徒3,000人以上、合計約4,000人が籠城して、このうち外国人200人以上が戦死し、支那人キリスト教徒数100人が餓死ないし病死した。北京のPeitangカトリック教会地区では、外国人71人(仏伊軍人43人を含む)と支那人キリスト教徒3249人、合計3,420人が籠城して、400人以上が戦死ないし病死した。

他方、義和団や清国軍、更には巻き添えになって死亡した支那の一般住民の死者の数は不明。

 キリスト教聖職者等や支那人キリスト教徒が非キリスト教徒たる住民の敵意の対象になったのは、「強引な布教活動や教会用地取得を行」った(コラム#752)(注5)ことに加えて、結果的にキリスト教聖職者等が欧米列強による支那侵略の先兵となってきたこと(注6)、貧民の間でキリスト教徒が急速に増え、その中にはで教会(=列強)の威を借りて非キリスト教徒たる住民に威張り散らしたり食事を強要したりする者がいたこと(注7)、聖職者達が支那人キリスト教徒の町や村の儀式やお祭りへの参加を禁じ、お布施の提供も禁じ、更には先祖崇拝まで禁じたため、キリスト教徒の増加に伴って町や村の秩序が瓦解し始めたことが挙げられます。

 (注5)アロー戦争(第二次アヘン戦争。1858?60年)の結果敗北した清と勝った英仏との間で北京条約が締結され、その中でキリスト教の施設を支那国内に建設するための土地の取得・賃借の権利が認められた(http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/106-19china2.html。6月13日アクセス)。聖職者達は、この権利を振りかざして道教等の施設を半ば強制的に取り上げてキリスト教施設を建てたり、風水(feng-shui)を無視した施設を造ったりしたりした。

 (注6)第二次アヘン戦争(上記)の英国の開戦理由はアロー号事件だったが、フランスの開戦理由は広西省でフランス人聖職者が殺害されたことだった(http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/106-19china2.html上掲)。また、1897年にドイツ人の宣教師二人が殺されると、これを奇貨としてドイツ政府は清国政府を脅迫して、山東半島の膠州(Kiaochow)湾を海軍基地として獲得した上、清国政府のカネで各地にカトリックやプロテスタントの教会を建てさせ、その入り口に「清国皇帝の命により設立」と掲示させた。

 (注7西太后は、これを知って怒りを隠そうとしなかった。

 中共が、カトリック教会を始めとするキリスト教各派を厳しく統制する一方で法輪功Falun Gong)(注8)のような新興宗教を徹底的に弾圧する(コラム#555)のは、共産主義が無神論だから、というより、キリスト教各派が体制変革の拠点になったり新興宗教が騒擾事件を引き起こしたり、更にはこれら宗教宗派間で宗教戦争が起こったり、といった義和団の乱当時の状況が再来することを警戒しているから、と見ることもできます。

 (注81992年に李洪志Li Hongzhi1961年または1952年吉林省生まれ。現在ニューヨーク居住)が創始した。李が宗教ではなく心身鍛練法であると主張していたこともあって、当初は中共当局は法輪功に好意的であり、1998年にはは法輪功の信者は中共内だけで7,000万?1億人に達したとされる(中共当局発表)。中共当局は、翌1999年に迷信をまき散らす悪しきカルトであると断じて法輪功禁止へと舵を切り、大弾圧を開始した。法輪功に対する各国政府のスタンスは、米国は擁護、カナダは許容、日本・シンガポール・インドネシアは警戒、フランスは弾圧、と分かれている。(http://en.wikipedia.org/wiki/Falun_Gong及びhttp://en.wikipedia.org/wiki/Li_Hongzhi(どちらも6月13日アクセス))

 他方、当時より一層宗教音痴になった日本では、義和団の乱の宗教戦争としての側面を忘れがちです(注9)。

 

 (注9)日本の当時の北京駐在西徳次郎公使は、義和団の乱は西欧=キリスト教に対する排外運動であるので、日本としてはこれに深入りしないほうが良い、という認識だった。なお、これに対し、当時の青木周蔵外相は、当初から欧米列強の動きにならい、機会を捕らえてこの乱に積極的に介入する考えを持っていた。

 そのためでしょうか、義和団の乱に関しては、天津攻略戦(その前段としての、大沽砲台(TakuForts)攻略戦を含む)や北京の公使館地区の籠城戦や攻略戦は語られても、北京のPeitangカトリック教会の籠城戦や攻略戦については、ほとんど語られることがありません。

(続く)