太田述正コラム#10233(2018.12.5)
<人間主義再考(その2)>(2019.2.24公開)

 (2)仁

 仁とは次のようなものです。↓

 「仁<は、>・・・主に「他人に対する親愛の情、優しさ」を意味しており、儒教における最重要な「五常の徳」のひとつ。また仁と義を合わせて、「仁義」と呼ぶ。古代から近代に至るまで中国人の倫理規定の最重要項目となってきた。<支那>の伝統的な社会秩序(礼)を支える精神、心のあり方である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81

 しかし、孔子自身は、(私がこれまで人間主義の定義をしなかったように(?!))仁の定義をしていません。
 「他人に対する親愛の情、優しさ」という、定義的なものを示したのは孟子です。↓

 「孟子は惻隠(そくいん)の心が仁の端(はじめ)であると説いた」(上掲)

 しかし、仁にせよ、惻隠の心にせよ、それは、動物すら対象にはならないもののようなのです。↓

 「孔子は概して動物に冷たい。『論語』八佾篇では、弟子の端木賜が羊を儀式の生贄に使う事に反対していたのを戒めている。馬の命の軽視については、郷党篇の話が有名である。馬小屋が焼けた際に、孔子は人間が死傷したかどうかだけを尋ねて馬については尋ねなかった、とされている。」
http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20120106/1325845175

 なお、孟子(もうし)・梁恵王(りょうけいおう)・上に、「君子(くんし)は庖厨(ほうちゅう)を遠(とお)ざく」とあって、その意味は、「君子は生あるものを哀れむ気持ちが強いから、生き物を殺す料理場に近づくことは、とうてい忍び得ない」ということだとされている」
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kotowaza28
ことから、孟子は、一般の人はともかく、君子は動物にも惻隠の心を及ぼすとしているように、一見、見えるのですが、そうではなく、動物は人間に食されるために存在するのだから惻隠の心を及ぼしてはならない、と言っているのです。
 孔子や孟子と、この点で対照的な儒者が、はるか後の時代に生きた程明道です。↓

 「<程明道(1032~85年)は、>・・・朱子学・陽明学の源流の一人<であり、>・・・老荘や仏教に惹かれたが再び六経の研究に戻った。・・・
 程は書斎の窓にかかる雑草を切り払わず、常に天地の「生意」に心を配っていたという。師の周敦頤がやはり草木を「自家の意思と同じ」と考えていたことに通じ、万物は一体であるという思想を共有していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E3%82%B3%E3%82%A6
 「程明道の解釈では、仁を「万物(万民)一体」と解釈する。明道は天地万物一体を強調する儒者であり、「万物一体の仁」の説を次のような過程で展開していく。医書では手足の麻痺した症状を「不仁」と呼び、自己の心に対して何らの作用も及ぼしえなくなってしまっているためと解し、これを生の連帯の断絶とそれに対して無自覚であることを意味するとし、生意を回復せしめることが仁であるとした。つまり、「万物一体の仁」の一つの説は「知覚説」であり、痛痒の知覚をもつことを仁としているわけである。もう一つの説は、義・礼・智・信が、皆、仁であるとする立場であり、ここからは仁を「体」とし、五常を「用(作用)」と見なしていたことがわかる(明道にとって、仁は生である)。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81 前掲

 つまり、程は、人間主義とイコールであるところの仁概念へと到達したわけです。
 しかし、程明道を源流の一つとする朱子学・・後に明と李氏朝鮮の国教になった・・の創始者たる朱熹(1130~1200年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E7%86%B9
は、「万物一体の仁」を歪曲し、矮小化してしまうのです。↓

。「ふつうの昆虫の類でも、みなこれ(仁義禮智)をもっている。だだ偏って不完全であり、濁った気に『間隔』せられているだけだ」(朱子語類 巻四・5)「気は昇降して休
むときがない。理はただ気に付着しているだけだ。気が昏濁すると、理もまたそれに応じて、『間隔』させられる」(朱子語類 巻四・56)。「隔」という言葉によって朱子が表現しようとしたものは何であるか、その問題をめぐって、学界では様々な論争が起こった。「不相離・不相雑」の理気関係を社会構造に入り込んで分析すれば、朱子の理気論が政治統治面で精密な統治イデオロギーとなることが明らかである。「本然の性」と「気質の性」の間に「隔」があり、完全な天理を具現する人は聖人に限られている。各々の人間は「気」によって、顕れた「理」の多寡がある。これにより、社会における人々の位置が定められる。・・・
 おそらくその時、朱子の頭に浮かぶのは華厳の「事事無碍法界」と荘子の「天地も我れと並び生じて、万物も我れと一たり」の考えであろう。つまり、「万物一体」は三者に共通する認識であった。しかしながら、儒家の「万物一体」は親縁性、社会性及び政治性などの性格を備えるので、仏教と道家との根本的な区別が明確に読み取れる。」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/220432/1/soc.sys_20_71.pdf

 すなわち、昆虫類(動物類)は、仁の非普遍性の譬えとして使われているだけで、仁は事実上、生きている人間達だけに関わるものとされ、しかも、その仁が、人間達を区別し、差別するための論理へと、朱熹によって、貶められているのです。
 いや、貶められているというよりは、朱熹は、孔子や孟子にとっての仁、つまりは、儒教の仁概念を、より精緻に祖述しただけだ、と言えるでしょう。

(続く)