太田述正コラム#10235(2018.12.6)
<人間主義再考(その3)>(2019.2.25公開)

 では、改めて、儒教の仁概念とはいかなるものだったのでしょうか。
 それは、親の子に対する愛情をイメージしたものでした。
 それは、子以外の子供達一般には必ずしも及ぼされないところの、無償性を帯びた愛情ですよね。
 つまり、最初から、儒教の仁概念には、差別的含意があるのです。
 そして、その反射的概念が、儒教で言うところの(子から親に対する)「孝」なのです。↓

、「<朱熹もそうだが、伝統的な>儒家<は、ことごとく、>・・・「孝」・・・<すなわち、>血縁関係<こそを、>・・・儒学が成り立つ基盤・・・<であって、仁、すなわち、>自主的人格と公共の道徳を形成する原点である<と考えてきた>。」(上掲)

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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典における仁の解説]

 ここまで書いて来てから、表記を「発見」。
 この方が分かり易いと思う人もいると思うので、紹介しておく。

 「儒教が主張した愛情の一形態。愛とは,他人を大切に思い,いつくしむ感情をさす語である。それとは別に仁という語が成立しているからには,仁と愛とは同義ではない。語源については,一般には,仁とは,人間の姿を示す象形文字であるが,(太古においては,他部族の者は人ではないから) 自分の身近にいる親しい間柄の「仲間」,または,二人の人と人との間の愛情の意味,といわれる。儒教でも,仁をほぼ同様の意味で用いている。「克己復礼」,すなわち,私的なわがままを押えて,礼すなわち社会的規範に従うことが仁である,と孔子が述べているように,仁という愛では他人との身分的境界が常に意識され,礼という公の規準が先行している。したがって,普遍的な人間愛 Humanismや仏教の平等愛である慈悲などとは違う。儒家が,墨子の説いた兼愛を,親子君臣の区別を無視する態度だとして非難していることからも,仁が身分的隔差と上下関係を前提とした愛情,礼を基準にもつ愛情であることが知られる。現代語では,血縁愛,同朋愛などがあたるであろう。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81-81299
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 「<それに対し、王>陽明はそれを意識的に超越<すべく>、人格と道徳のさらなる越境、即ち<程明道の唱えた>「万物一体の仁」<を再提唱し>た。
 <すなわち、>人間それぞれ致良知を通して自然と融合し、天地万物と一体化することができると陽明は提唱<したのだ>。」(上掲)

 上掲の論文の執筆者の、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程(当時)の李静
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/220436/1/soc.sys_20_a.pdf
は、同じ論文『「万物一体の仁」に関するひとつの再解釈』(2017年)の中で、「日本においては、幕末の志士と言われる吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助らが日本の陽明学から大きく影響を受けたと言われている。しかし、周知のように、陽明学が唱える「知行合一」と「事上磨練」は志士に重宝されたが、「万物一体の仁」の考えは重要視されなかった。」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/220432/1/soc.sys_20_71.pdf (前掲)
と記していますが、そうではなく、程明道/王陽明の「万物一体の仁」は、人間主義とイコールであるが故に、そんなものは、日本人であるところの、幕末の志士達にとっては空気の如き代物なので、改めてそれについて語ることがなかった、ということでしょうね。
 この関連で、興味深いのは、下掲です。↓

 「21世紀に入って、中<共>政府は政権の安定を図ると同時に、民衆に自国文化への自信を高めさせるため、共産主義思想が伝統文化と接近する姿を示し、儒学及び他の伝統思想が復興する気運が高まってきた。
 特に、習近平は政治舞台に上がった後、儒学及び伝統文化の復興を強力に提唱し、そして何度も公開の場で陽明心学を絶賛した。
 それを契機にして、陽明学研究は一世を風靡して、関連する著作が<中共で>雨後の筍のように次々と現れた。」(上掲)

 習(中共当局)は、「万物一体の仁」が(日本の)人間主義・・それを、ヒュームの「人性」という言葉(コラム#省略)でもっぱら表現しているのか知りたいところです・・とイコールであることを自覚しているわけです。

(続く)