太田述正コラム#755(2005.6.16)
<義和団の乱(その4)>
もとより、舞台装置も整っていました。
英国とロシアは中央アジアを中心にグレート・ゲーム(Great Game)(コラム#100、725)を争っていたところ、義和団の乱に直面した英国は、これを契機にロシアが支那で勢力を伸張させることを恐れた(注14)ものの、自らは兵力を十分支那に投入できないことから、かねて好意を寄せていた日本に兵力増派を求めた、という経緯があります。
(注14)義和団の乱の第一報が届いた時、ロシア陸相クロパトキン(Alexei Nikolajevich Kuropatkin。日露戦争の時の総司令官)は笑みを浮かべて「満州を占領する口実ができた」と蔵相ウィッテ(Sergei Witte)に語っている。
なお、乱の最中の1900年6月、清国兵がロシア領ブラゴエシチェンスクを襲撃したことに端を発し、ロシアは同地の清国人を捕縛の上、老若男女5,000人あまりを黒竜江(アムール河)で虐殺した。
米国も、ロシアに強い警戒心を抱いていました。
義和団の乱の最中の1900年7月、米国は国務長官ヘイの名で、門戸開放宣言 (Open Door Doctrine)を発しましたが、これは1899年の宣言を再度繰り返したもので、満州に派兵したロシアを牽制するのが最大の目的でした。
日本も、当時、ロシアへの強い警戒心では人後に落ちないものがあり、同じくロシアを最大の仮想敵国とする英国に親近感を持っていたことはご承知のとおりであり、英米両軍と日本軍との間には最初から、友好ムードがありました。
第二次北京進撃に当たって、日本軍が英米軍と行動をともにしてPeiho河の西岸を進み、仏露独伊オーストリアは東岸を進んだことは、偶然ではなかったのではないでしょうか。
日本軍は大沽砲台攻撃や北京攻略に当たってもめざましい働きをするのですが、何と言っても英米の軍人達をうならせたのは、北京の公使館地区に籠城した柴五郎(注15)中佐以下の日本守備隊の活躍と、北京入城後の日本軍の規律の高さです。
(注15)1859?1945年。会津藩の武士の家に生まれ、戊辰戦争後の会津藩の下北半島の斗南(藩)への「島流し」で辛酸をなめる。柴五郎著石光真人編「ある明治人の記録?柴五郎大将の遺書」(中公新書)参照。
日本守備隊は、支那人キリスト教徒が避難していた一画(注16)を守ったのですが、少数の兵士で睡眠時間を削ってここを守りきったのです(注17)。しかも柴は、支那人スパイを駆使して情報収集を行い、敵の清国兵から銃や弾薬を買い取り(?!)、支那人キリスト教徒の間から志願者を募って一緒に戦わせました。
(注16)公使館地区中央北に位置していた粛親王邸。西太后の宣戦布告前に、親日家で解明派の粛親王(Prince Su)から、親王邸への避難民収容の了解をとったもの。なお、了解をとったのは柴だと日本のサイトは記している(http://www.h7.dion.ne.jp/~speed/shiba_story.htm。6月15日アクセス)が、プレストンは英国人のタイムス特派員のモリソン(Morrison)が親王を半ば脅迫して了解をとりつけたとしている。プレストンの典拠が偏っていたことの弊害がこんなところにも現れている。
(注17)途中で一旦二グループに分けて交互に休息をとった際、柴は、英国の海兵と志願兵に代わりを務めてくれるよう英軍に依頼し、受け入れられている。
支那人キリスト教徒達は、日本と英国の守備隊の下で各種作業にも従事させられたのですが、彼らは作業が過重で食事も碌に与えられず、何かというとすぐ鞭を振り回されたために英軍を好まず、日本軍の下での作業を望みました。
連合軍が北京に入城すると、どの国の軍隊も多かれ少なかれ無辜の住民の虐殺や物品の略奪に手を染めたのですが、一番最初に治安が回復したのは日本軍の占領地区であり、この地区に続々と住民が集まり、商売も活発に行われるようになりました。これに英軍や米軍も倣いましたが、ロシア軍占領地区では最後まで治安が回復しませんでした。
こうして、日本人に敬意の念を抱いた北京の英米人は、日本人と真の友情で結ばれることになるのです。
(2)私の感想
義和団の乱は、その後の1945年に至る北東アジア情勢の基調を決定づけた、という感を深くします。
基調の第一は日本の勢力伸張です。
すなわち、北京議定書調印後もロシアは満州から撤退せず、これが義和団の乱を通じて高まった日英間の友好関係もあって1902年の日英同盟締結を促し、それが1904?05年の日露戦争、更に1905年の日本の朝鮮半島保護国化、1910年の日韓併合へとつながっていきます。
基調の第二は、支那情勢の流動化です。
この乱が鎮圧段階に入っていた1900年10月、孫文(コラム#228?230、234)らを中心とする興中会(注18)は、広東省の恵州で蜂起し、一時1?2万人の勢力となりますが、11月には壊滅します(注19)。
(注18)孫文はキリスト教に改宗後、滅満興漢を志し、1994年、日進戦争勃発の頃、ハワイで興中会を組織し翌年、日清戦争終結後に広州で最初の挙兵を試みたが失敗するhttp://www1.interq.or.jp/~t-shiro/data/human/sonbun.html。6月15日アクセス)。
(注19)これを恵州事件という。蜂起に際し、日本が武器援助と軍事顧問派遣を行うことが孫文と台湾総督児玉源大郎らとのあいだで合意されていたといわれるが、山県内閣が辞職し方針が変わったこともあって、孫文らに呼応することができなかったようだ。(http://www.tabiken.com/history/doc/F/F238R200.HTM。6月15日アクセス)
しかし、義和団の乱の後、開明政策に復帰した清によって日本等に送られた留学生達が、孫文らの滅満興漢勢力に次々に加わっていきます。
他方清が、(日清戦争の分に加え)多額の賠償を負担させられたことや外国軍の駐留権を認めさせられたことは、清を一層疲弊させるとともに、その権威を失わせました。
これらのことがあいまって、1911年の清の滅亡、辛亥革命がもたらされ、その後支那は混乱の時代を迎えることになるのです。
(完)