太田述正コラム#10243(2018.12.10)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その6)>(2019.3.1公開)
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[国共内戦における捕虜虐殺]
この本を読んだ、これまでのところ、唯一の収穫が、表記の一事例が典拠とともに記されていることだ。↓
「<1934年、>福建省・・・ソビエト主席兼軍区司令官。。。<の>方志敏<は、>・・・国民政府軍の俘虜となり殺された。
・・・王明<(注6)(コラム#4950、8628)>は<、>1935年、・・・コミンテルン第7回代表大会で、・・・次のように述べた。
(注6)1904~74年。「武昌大学在学中に青年共産同盟に加入し、1925年に中国共産党に入党した。モスクワ中山大学に留学し、中国共産党モスクワ支部を指導した。また、同時期にモスクワに留学していた蒋介石の息子の蒋経国を執拗に攻撃し続け、蒋経国はスクワ近郊の貧しい農村、アルタイ金鉱、そしてスヴェルドロフスクのウラル重機械工場で働かされる羽目になった。さらには故郷の母のもとへ、父である蒋介石を罵倒し、共産党を擁護する手紙を蒋経国に無理やり書かせようとした。これは、蒋経国から相談を受けたソ連当局が王明の指示は好ましくないものであるとの見解を示し、蒋経国は改めて自ら手紙を書いたが、王明は上記の内容の手紙の下書きを勝手に送り、その内容はプラウダやニューヨーク・タイムズに掲載されてしまった。
1930年に帰国。当時の最高指導者であった李立三を批判し、党の最高指導権を握った。
1931年、ソ連からコミンテルン中国代表に指名されたが、1935年1月の遵義会議以後次第に毛沢東に主導権を奪われ、1942年からの整風運動でほぼ完全に党内の影響力を失った。
1943年春、権力奪還を計画。コミンテルンを通して毛沢東を押さえ込む目的で、密かにソ連行きを画策したが、5月にコミンテルンが解散したため計画は失敗した。
1945年、中国共産党第七回大会で、下から二番目の序列で中央委員に選出された・・・。・・・
1956年、中国共産党第八回大会で最下位で中央委員に選出された<が、>「病気治療」の名目でソ連に事実上亡命した。1969年中国共産党九回大会では中央委員に選出され<ず、>死ぬまでソ連にとどまり、モスクワで逝去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%98%8E
「・・・方志敏は俘虜になったのち、数カ月間、あらんかぎりの虐待と辱めを受けた・・・」(36~37)
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「有名な「一二九」学生運動・・蒋介石による冀察政務委員会<(注7)(コラム#4008、4010、4616、4618、5569、5609、6260、8392、8628)>の設置に抗議して、北平の学生たちが、1935年12月9日に行ったデモ行動。運動は全国に波及し、抗日ナショナリズムを高揚させ、抗日民族統一戦線への動きを加速させた。・・・<これ>はすなわち、中共が学生の感情を煽り、利用しようとした試みである。
(注7)「1935年(・・・昭和10年)12月18日に国民政府により設置された機関であり、宋哲元を委員長に任命し、河北省、チャハル(察哈爾)省を統治させた。・・・
これは蒋介石が関東軍による日本の傀儡化がこれ以上及ぶのを恐れ先手を打ち、表面上は日本が要求している北支自治運動の形式を取りながら、実態は南京政府の制御下にある「日本の傀儡でない自治政府」である。そのため、国民党政府でありながらも<3人の>日本人軍事顧問が招聘され・・・盧溝橋事件の際には現地解決に努めた。冀東防共自治政府は冀察政務委員会と満州国に挟まった傀儡地方政権である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%80%E5%AF%9F%E6%94%BF%E5%8B%99%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
学生運動は当初、自発的な性格をもっていたが、中共中央北方局・・・はすぐさま、学生運動の矛先を国民政府に向けるよう誘導した。・・・
⇒冀察政務委員会は(対日融和策を採っていた)国民政府によって設置されたのですから、学生運動が、反日とともに、当初から反国民政府的色調も帯びていたのは当然でしょう。(太田)
1936年1月、毛沢東や周恩来ら紅軍の将領20人は、張学良ら東北軍の軍長および師団級以上の将官にあてて連名で書簡を送った。・・・
「『九一八』からすでに4年余りたった。・・・
日本帝国主義強盗、売国奴の頭目蒋介石はあなたがたの不倶戴天の仇である。
あなたがたは命にかかえて日本帝国主義と蒋介石を打倒し、われわれの東三省および華北全体を取り戻すために奮闘すべきである!」
この書簡は軍隊の<蒋介石への>造反を煽る文書であり、1935年、コミンテルンがいわゆる国際統一戦線を樹立し、・・・12月20日から25日まで、中共中央がいわゆる「団結抗日」の瓦窯堡(がようほ)会議を開き、国民政府と中共が複数のチャンネルを通じて交渉を始めていたときでもあった。
⇒当時の中国共産党はコミンテルン(ソ連)に対して面従腹背であったというわけであり、少なくともその点に対して、どうして著者が批判的↑↓なのか、首をひねってしまいます。(太田)
中共の領袖たちが少しでも民族の責任感をもっていたならば、はたしてこのようなことを行ったであろうか。」(46~48、57)
(続く)