太田述正コラム#760(2005.6.21)
<中共の経済高度成長?(その4)>
(本篇の上梓は、6月19日です。)
4 スタッドウェルの指摘
(1)どうして支那は停滞したのか
ア 支那の絶頂期として唐時代
大変お待たせしましたが、いよいよスタッドウェルの本を俎上に乗せます。
支那の歴史については、スタッドウェルは歴史学者ではないので、この本の導入部において、マルコポーロ以来、欧米人がいかに支那の経済的可能性に幻惑されてきたか、という観点から、支那の歴史を概観するにとどめています。
しかし、この歴史の概観の中で、スタッドウェルは支那の絶頂期を唐(Tang。618?907年)の時代としており、全盛期の唐は文字通り「中国(世界の中心の国)」であり、政治・経済・社会・文化のすべてにおいて卓越していた、という趣旨のことを述べています(PP4)。
当時唐の首都長安(注7)の人口は200万人で、人口50万人以上の都市が20以上あり、しかも唐の国際化が進んでおり、イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ人・ゾロアスター教徒等が長安に25,000人、海岸地域の広州(Guangzhou)と泉州(Quanzhou)に100,000人も住んでいました。
(注7)日本で知られている「長安」という名称を用いたが、この名称は実際には使われず、現在の「西安」に所在した唐の首都は、唐の時代には「京城」から始まって「西京」、更に「上都」と名称が変わったようだ(「簡明中国歴史地図集」中国地図出版社1996年40、42、44頁)。
しかし、8世紀末から唐は叛乱の頻発等によって次第に衰えていきます。
そして拝外主義的風潮が強まり、暴徒が何度も外国人虐殺事件を引き起こしたために外国人の減少を招き、更に、845年に唐の武帝によって外来の仏教(注8)が弾圧される(会昌の法難)(http://homepage3.nifty.com/54321/chuugoku.html。6月19日アクセス)に及んで、唐、ひいては支那の活力は、一挙に減衰してしまったというのです。
(注8)ニュージーランドの中国史家のアドシード(Samuel Adshead)は仏教哲学は、デカルトが出現するまで、哲学として世界で最高水準のものだったと指摘している。唐についてのスタッドウェルの記述は、もっぱらアドシードによっているが、アドシードが唐と時期的に同じサラセン帝国のイスラム文明の水準の高さを無視しているのはともかくとして、アドシードが仏教哲学がギリシャ哲学やイギリス経験論哲学(コラム#46)より優れているという考えだとしたら、いささか贔屓の引き倒しと言うべきか。
イ 支那停滞の原因
私は明(Ming。1368?1644年)の時代までは支那はまだ世界に向けての文化発信力を持っていたと思います(コラム#132)が、支那の絶頂期は唐だったというスタッドウェル(アドシード)の指摘は、なるほどと思います。
ではどうして、唐以降の支那が停滞状況に陥ったのでしょうか。
スタッドウェルの説明を、私なりに敷衍してみましょう。
遡ればその原因は、秦(Qing。BC221?BC207年)の始皇帝(First Emperor。BC259?BC210)に行き着くのではないでしょうか。
始皇帝が支那で初めて中央集権的国家を樹立したことによって、度量衡の統一等が行われた点は良いことでしたが、その反面、支那から地域による多様性や地域間の競い合いががなくなり(注9)、周囲に文明のレベルの低い外敵しか存在しなかったことも相まって、支那の活力が奪われてしまいます。
(注9)これに対して、西欧では現在に至るまで聖俗の分離と政治権力の分権が続いているし、日本では天皇と将軍の並立と大名領地の並立が明治維新まで長く続いたことはご承知の通りだ。
次に大きいのがBC213年に行われた焚書です。
焚書では、秦の公定歴史書・医学書・占いの本・農業書以外のすべての書物が消却されました。この焚書の一環として、法律は官吏だけが教えることができる・・民間の独自解釈による教育は禁じる・・こととされました。
つまり、歴史と法律について公定解釈以外の解釈が禁じられるとともに、あらゆる思想が禁圧されたわけであり、つまりは言論の自由が封殺された、ということです。
もとより、隠匿することで焚書をまぬかれた本も少なくありませんでしたし、思想を根絶やしにすることもできませんでした。しかし、例えば儒学が、占いの本であったために焚書の対象とならなかった「易」をよりどころにした偏頗な理論を爾後展開するようになったことが示すように、始皇帝の焚書によって、諸子百家が自由闊達に互いに意見を戦わせるという周(Zhou。BC1027?BC221年)末の春秋・戦国時代(Spring and Autumn period・Warring States period。BC770?BC476年・BC475?BC221年)の支那の輝かしい伝統(注10)は失われてしまうのです。
(以上、焚書については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%9A%E6%9B%B8(6月17日アクセス)による。)
(注10)とはいえ、春秋・戦国時代の諸子百家を、ほぼ同じ時代の、しかも同一文明に属する都市国家の競い合いの中から生まれたという点でも似通っているところの、古典ギリシャの思想家や科学者達と比べれば、諸子百家は霞んでしまう。唯一の例外は孫子だ。兵法書「孫子」(コラム#77、132)は、現代の軍事関係者にとっても、なお必読書と言って良い。
そして、秦を引き継いだ漢(Han。BC206?AD220年)が、武帝の時(BC136年)に五経(詩・書・礼・易・春秋)を経典として儒教を国教に定め、官吏登用試験の必須科目とした(http://homepage3.nifty.com/juroujinn/jukyou.htm。6月17日アクセス)ことによって、支那の言論の自由はほぼ完全に封殺されることになります。
ところが、漢の滅亡後、支那は、三國(Three Kingdoms)、五胡(Five Tartars)・十六國(The 16 states)/西晉(Western Jin)・東晉(Eastern Jin)、南北朝(Southern and Northern Dynasties)と、220?581年の長きにわたって基本的に分裂状況の時代が続き、しかも仏教が本格的に伝来して支那の思想的宗教的状況を再活性化したおかげで、支那社会が活力を取り戻すのです。
例えば、道教が成立するのは、支那の民間信仰や老荘思想に仏教が混淆したこの時代です。
(以上、仏教伝来と道教成立については、http://homepage3.nifty.com/54321/chuugoku.html及びhttp://www.ms-win.com/~sekaishi/chinab3.htm(どちらも6月19日)による。)
その後、隋(Sui。581?617年)がようやく再び中央集権国家を樹立し、更に短期間で同じく中央集権国家である唐の時代を迎えるのですが、支那社会の活力はしばらくは持続し、仏教の隆盛とあいまって、支那は、スタッドウェル(アドシード)の言うところの絶頂期を迎えるわけです。
しかし、唐が、貴族政治を打破する目的で隋時代に始められた科挙という、儒教的素養だけを問う官吏登用試験制度を踏襲した(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99。6月19日アクセス)ことによって、支那の思想・言論は再び萎縮に向かい、先ほど触れたように、仏教が弾圧されるに及んで、唐、ひいては支那の活力は、一挙に減衰してしまった、というわけです。
(続く)