太田述正コラム#762(2005.6.23)
<中共の経済高度成長?(その5)>
(2)では支那はどうして最近高度成長しているのか
ア トウ小平という人間
最近の中共の高度経済成長の立役者は、1979年から死去する1997年までの18年間にわたって中共の最高権力者であったトウ小平(Deng Xiaoping。1904?97年)です。
トウ及びトウの経済政策の記述についても、スタッドウェルにそれほどのオリジナリティーがあるわけではないので、スタッドウェルの本にも言及しつつ、私見を申し述べたいと思います。
(以下、特に断っていない限り、本のほかには、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3、http://en.wikipedia.org/wiki/Deng_Xiaoping、http://library.thinkquest.org/26469/movers-and-shakers/deng.html、http://encarta.msn.com/encnet/refpages/RefArticle.aspx?refid=761574566(いずれも6月21日アクセス)による。)
まずは、トウ小平の人物像から始めましょう。
トウは、一度も外国に行ったことがなかった毛沢東とは対照的な青年時代を送っています。
彼は四川省の客家系地主の家に生まれ、1920年、16歳の時にフランスに留学します。
これは働きながら教育を受けるフランスの「勤工倹学」制度を利用したものであり、同じ制度でフランスに留学した人物に、周恩来(Zhou Enlai)やホーチミン(Ho Chi Minh)がいます。このように筋金入りの共産主義者になった人物が多いところを見ると、この制度に藉口した過酷な労働搾取があったに相違なく、彼らが当時のフランスで猖獗を極めていた共産主義にからめとられてしまったことは、しごく自然なことだったように思われます。
トウは、周恩来によって設立されていた中国共産党欧州支部に1924年、入党し、その機関誌の編集に周編集長の下で携わり、トウと周は、生涯変わらぬ固い友情で結ばれます。
そして1925年には、フランスから直接ソ連に赴き、モスクワの東方大学(Communist University for Toilers of the East)と中山大学(Sun Yat-sen University)に学びます(注11)。
(注11)こういった名称の大学がソ連に設けられていたことは、ソ連がいかに支那への共産主義の普及に力を入れていたかを物語っている。
この時のソ連はネップ(新経済政策。1921年?1928年)という、資本主義回帰期の真っ最中であり、おかげで第一次世界大戦とそれに引き続く内戦によって荒廃したソ連(ロシア)の経済は力強い回復過程にあった(注12)ことが、トウの記憶に焼き付いたことは想像に難くありません。
(以上、ネップについては、http://www.tabiken.com/history/doc/O/O110C100.HTM(6月21日アクセス)による。)
(注12)1927年にはソ連(ロシア)の経済は、ほぼ第一次世界大戦前の水準に戻った。
トウは、その翌年、ソ連を後にして支那に帰国します。
1957年には彼は中共の総書記(general secretary)になりますが、毛沢東が主導した1958?59年の大躍進政策の失敗の後、国家主席の劉少奇(Liu Shaoqi)、首相の周恩来とともに、穏健な経済改革路線を推進します。
1962年にトウが語った「不管白猫 黒猫 逮住老鼠就是好猫(白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である)」(http://en.wikiquote.org/wiki/Deng_Xiaoping。6月21日アクセス)はトウの経済政策の本質を的確に表しており、私はこのまま行けば、支那は1960年代の半ばから早くも高度経済成長を始めていたであろうと考えています。
ところが、1966年に毛沢東が文化大革命を始め、トウは走資派(capital roader)であると批判されて1968年に失脚し、トウの経済改革は挫折してしまいます。
トウは、(死期の近いことを悟っていた)周恩来の毛沢東への懇願もあって1974年に復権し第一副首相となり、1975年には中共副主席に就任します。しかし、1976年には1月に周恩来が死去(毛沢東は9月に死去)し、清明節(注13)に行われた周恩来追悼デモ(第一次天安門事件)の責任を問われ、その4月にトウは再び失脚しますが、翌1977年には江青ら四人組(Gang of Four)失権・逮捕の後またもや復権します。そして1979年には、毛沢東の指名後継者である華国峰(Hua Guofeng)を失脚に追い込んで自らの完全復権を果たし、ここに中共におけるトウ小平時代が始まるのです(注14)。
(注13)春分から数えて15日目の、後先祖の墓参りをする日(http://news.searchina.ne.jp/topic/306.html。6月21日アクセス)
(注14)ただし、トウの就いたポストらしいポストは、党と国家の軍事委員会主席(1981?89年)にとどまる。
忘れてはいけないのは、毛沢東によってあれだけ辛酸を舐めたにもかかわらず、トウが毛沢東を全面否定しようとは決してしなかったことです。
それは、トウが中共の独裁権力の堅持を絶対視する、という点において毛沢東に勝るとも劣らない信念の持ち主だったからでしょう。
その証拠に、毛沢東が中共内のコミンテルン(ソ連)盲従派に反旗を翻した時にトウは同調しました(注15)し、毛沢東が大躍進政策直前に打ち出した右派批判にも同調しましたし、毛沢東が開始した中ソ対立においても先頭に立ってソ連に論戦を挑んだものです。
だからトウが、1979年に中越戦争を引きおこし、その1979年に中越戦争の軍事機密を外国人に漏らしたとして民主運動家の魏京生(Wei Jingsheng)を逮捕させ(http://members.jcom.home.ne.jp/katoa/soda.html。6月21日アクセス)(注16)、1989年には(第二次)天安門事件において学生達の虐殺を命じたのは、全く不思議ではないのです。
(注15)この時、トウ小平は失脚したが、その彼を救ったのが周恩来だった。トウはこの時も含めて3回も失脚し、そのすべてにおいて復権した。うち2回の復権は親友周恩来のおかげだ。
(注16)魏京生は18年間にわたって投獄され、1997年のトウ小平死去後ようやく病気治療を名目に釈放され、渡米した(http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc2/mri9712.htm。6月21日アクセス)。
それはともかく、中共の経済高度成長との関連で注目すべきは、トウがフランス在留経験もあって欧米好きであり(注17)、かつ先進的な資本主義的社会であったフランスやネップのソ連を実際に知っていたことです。
(注17)トウは、文革中に紅衛兵に北京大学の窓から突き落とされて半身不随になった自分の息子を1980年にカナダに送って手術を受けさせたし、もう一人の息子をニューヨークのロチェスター大学の大学院に留学させたし、三人の娘達や全員香港と米国に送り込んでいる(PP28)。また、トウはコントラクト・ブリッジやサッカー鑑賞が大好きだった。
(続く)