太田述正コラム#10267(2018.12.22)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その13)>(2019.3.13公開)

 「中共は長いあいだ、地盤の拡大と武装勢力の拡大を考えるだけであり、副首都重慶にいた<国民政府との連絡官たる>周恩来は、ばつが悪くてまともに顔を上げられなかった。
 その周恩来が百団大戦をいかに喜んだかは推して知るべしである。
 「1940年9月1日、周恩来は<党>中央にあてた『国民党の反共の口実をふさぎとめ、中間勢力を勝ち取る』ことに関する建議の中で、次のように述べた。
 『華北の百団大戦の影響はきわめて大きく、蒋も最良のことだと言っている。
 この反掃蕩<ママ(太田)>行動を山東および新四軍に拡大せよ』、『現在は敵を撃ち友と和することを主とせよ』・・・

⇒この、国民党を友とし日本軍を敵とする口吻からして、周恩来は、毛沢東の杉山らとの(私の想定しているところの、)密約、というか、「調整」内容、を、毛から明かされていなかったように、私には思われます。
 さりとて、毛がこの時点で党内で絶対権力を掌握していたとも思えない・・王明のようなソ連派の存在を想起せよ・・ことから、毛単独で、中共を杉山構想実現の走狗として差し出す、という、恐るべき戦略を決定し遂行できたと考えることにも無理があるので、一体、毛の同志達は誰々だったのか、を知りたいところです。(太田)

 国民政府はそのときにいたるもなお、八路軍に武器や食糧・給与の一部を供給しており、八路軍は当然、全民族のために戦うべきであった。
 国民政府は当時、民族の抗戦全体を指導しており、当然のことながら中華民族の代表だった。
 百団大戦は中共の軍隊による二回目の日本軍への打撃であり、国民政府に対する日本軍の圧力を軽減したという点では功績のはずだが、意外なことに過失と見なされている。
 このことは、日本軍と戦わずに国民政府の軍隊に打撃を与えること、根拠地の地盤を拡大することのみが–八路軍と新四軍は一貫してそのようにしてきたのだが–、功績とされてきたことを物語っている。

⇒日支戦争/大東亜戦争の間、中共の軍隊の日本軍への「打撃」が二回だけだった・・まだ途中ですが、その可能性が大ですね・・というのが、中共の、現在に至る公式見解なのかどうかも知りたいところです。
 そのこととも関連し、個人的なことで恐縮ですが、私の亡き父親は、何度か本コラムでも書いてきたように、商社員で現地招集されて、北支で将校として戦った経験を有するところ、「捕虜」刺殺や住民強姦等・・自分自身もやった(やらされた)のかどうかはさておき・・を含め、戦争は楽しかったという話をよくしていたにもかかわらず、中共軍に対しては、憤懣やるかたない思いを稀ですが口にしていた理由をついに聞きそびれたのは残念です。
 もとより、末端の、民間上がりの将校だった父親が、杉山構想めいたものを聞かされたり感じたりしたことはなかったはずですが、一体、彼の憤懣が、中共軍が、遊撃戦という、戦い方としては卑怯でしかも日本軍による住民虐殺を引き起こしやすい戦い方をしたからなのか、それとも、殆ど戦いらしい戦いをしないまま、日本軍の後方での勢力拡張をひたすら追求したからなのか、を聞きたかったのです。
 なお、著者は民族主義者(ナショナリスト)であるらしい、というか、支那人はそうであるべきことを当然視しているようですが、杉山構想の主犯者の杉山も(私の見るところの)共犯者の毛も、どちらもナショナリズムなど超越していた人物であることから、著者の毛批判のかかる視点そのものが「不適切」ですし、もう一つの視点に至っては、物質的利益を供与してくれた相手を裏切ってはいけない、などという、平時と有事の違いを弁えない「場違い」なものである、と、私は思います。(太田)

 中共七全大会は、毛沢東が整風運動を通じて王明にひどい打撃を加えるとともに、みずからの絶対的な個人支配を打ち立てようとするものであった。
 そのためには、まっとうにして、大胆に発言する彭のような軍の実力者を懲らしめる必要があり、百団大戦はその口実の一つにすぎなかった。
 彭はさまざまの誤りを自己批判したが、唯一、百団大戦が「あまりに早くわが勢力を暴露した」ことについては断固として認めなかった。・・・
 <これに対し、>百団大戦における中共軍の出動は<中華民>国軍が行ったような、阻止・反撃の性格をもつ大規模な会戦ではなく、いくつかのトーチカを破壊したり、多くの民工が参加して鉄道を破壊するという程度のもの<に過ぎなか>った<にもかかわらず>、日本軍の反撃に遭ってた多大の死傷者を出した。
 これは毛沢東をトップとする中共中央には許しがたいことだった。
 なぜなら抗戦期間における毛沢東の全ての戦略活動は、力を蓄え、地盤を拡大することであり、彭徳懐が指揮した百団大戦は毛沢東の戦略思想と相いれないものだったからである。」(112~117)

⇒ここでは、著者は、毛ら中共中央によるところの、戦果の割に自軍の損害が大き過ぎた、という「正当」な彭批判だけを紹介しており、何が言いたいのか訳が分からない、という思いを読者にさせてしまっているのではないでしょうか。
 (彭の反論の正しさを、逆説的に裏づけている、と言えないわけでもありませんが・・。)
 著者は、毛らが、反国民党にして親日本軍であり続けた、との自分の主張を裏づける話に注力しなければならないというのに・・。(太田)

(続く)