太田述正コラム#10275(2018.12.26)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その16)/皆さんへの問いかけ(続x4)>(2019.3.17公開)
「第二のルートは、汪傀儡政権の特務の頭目で警政署長、調査統計部長、江蘇省省長を歴任した李子群<(注20)>を通じたものである。
(注20)「昭和13年(1938)7月、第14師団長から参謀本部へ転出した土肥原賢二中将(終戦時・第十二方面軍司令官、A級戦犯で死刑)を機関長とする「土肥原機関」が設けられます。1千万円というとうじとしては破格の予算の機関は、上海共同租界の虹口公園近くの重光堂に本部を置きます。あたりには海軍陸戦隊本部があり、ここを陸軍の対重慶政府特務工作の本拠地としました。
「土肥原機関」は蒋介石がつくった藍衣社に対抗すべく「七十六号」<(前出)>という工作部隊を設置、統括することになります。そこに、晴気慶胤(はるけよしたね)少佐が派遣されました。晴気は佐賀鍋島藩士の家柄で、父は日露戦争に出征した陸軍中佐という軍人一家で、支那事変(盧溝橋事件)以来、晴気は支那課勤務で、一貫した中国通です。晴気は、「七十六号」指揮官を任され、汪兆銘政権下の軍事顧問として『謀略の上海』(戦後、自著として発表)を生き抜きましたが。「七十六号」とは、イタリア軍警備地のあるジェスフィールド76号にある広大な洋館(元重慶政府軍事参議院院長屋敷)を本部に置いたことから名づけられました。
「七十六号」は影佐禎昭大佐の梅機関とも連携します。影佐は、汪兆銘工作を組織させ成功させた工作における謀略のプロです。影佐率いる機関は、陸軍出身だけではなく海軍、外務省、民間人ら超党派で人材を選んで特務工作を行っています。一方「七十六号」のボスは、元<(藍衣社同様、国民党の秘密結社である)>CC団の李子群と丁黙頓のふたりの中国人です。・・・
李の配下は藍衣社寝返り組が多く、丁の配下はCC団あがりで、・・・丁の配下は・・・李の追い出しを企みます。しかし、丁自身が墓穴を掘ります。藍衣社から送り込まれた・・・美しい・・・女スパイ・・・の罠に、丁はまんまと陥り籠絡されてしまいます。・・・
東京に戻っていた晴気は上海に駆け付け・・・丁を追い出し、李一本で「七十六号」の立て直しを図ります。・・・
こうして、1940年、汪兆銘の新政権・・・が成立します。そして、「七十六号」は役割を終えて解散します。李子群は、蘇州の監房で食中毒で死亡しますが、誰の目にも毒殺であったことは明らかでした。」
https://books.google.co.jp/books?id=cEyfDQAAQBAJ&pg=PA1933&lpg=PA1933&dq=%E6%9D%8E%E5%AD%90%E7%BE%A4&source=bl&ots=VIE9oR8qbZ&sig=XVWveXJR0FmbtHw43Yfrcv7CW0M&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjA186Jmr3fAhUaQN4KHTa9BTYQ6AEwDHoECAMQAQ#v=onepage&q=%E6%9D%8E%E5%AD%90%E7%BE%A4&f=false
⇒杉山元は、土肥原に汪兆銘政権樹立と同政権の世話をやらせ、影佐に毛沢東との関係樹立と連絡調整をやらせた、といったところです。(太田)
李子群は早い時期にソ連に留学した中共の地下党員でもあった。
潘漢年は、漢奸になったあと逃げ道を残しておきたいという李の心理を利用し、彼を重要な情報チャンネルとした。」(129)
⇒李子群を収監し毒殺したのが、中共で、毛沢東の命令によるものだったとすれば、話の平仄はあいますね。
毛沢東は、自分が「漢奸」汪兆銘政権樹立にも深く関わったという事実は、さすがに、関係者を永遠に口封じをすることで漏れないようにする必要があった、と思われるからです。(太田)
(続く)
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–皆さんへの問いかけ(続x3)–
<GHq.f0N2>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
「縄文度」=「人間主義度」
島嶼での戦いでみんなで頑張りぬいたことを不思議に思わない(思いたくない)ことは、これで説明できる気がするけど、単位マニアについてはどうなんだろう。
匠の精神ってやつ?
うーむ。
<太田>
そりゃ、考え過ぎ、というものです。
あー、また、コメントしちゃった。