太田述正コラム#10277(2018.12.27)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その17)/皆さんへの問いかけ(続x4)>(2019.3.18公開)

 「このルートは最初、女性作家関露<(注21)>(かんろ)(本名は胡寿楯(こじゅじゅん))を通して行われ、関露を派遣する命令は葉剣英、廖承志経由で下部に伝えられた。

 (注21)1907~82年。作家、スパイ。上海法科大学法律系卒、露国立中央大学卒。中国共産党入党。文革中入獄。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B3%E9%9C%B2

 関露は李<子>群と公然と往来し、駐中国日本大使館と日本海軍が共同で経営していた雑誌『女声』の編集者となり、「大東亜文学代表大会」に参加するため訪日したこともある。
 関露は1941年初め、新四軍のもとへ引き揚げた。
 1942年初め、岩井のアレンジにより、潘漢年は影佐禎昭と会った。
 影佐の許可を得たのち、潘は李<子>群と直接連絡を取り、その後、潘は上海愚園路(ぐえんろ)にあった公館で李<子>群と会うことになる。・・・
 <このように、>中共のいわゆる秘密戦線は日本と連合し、中国の抗戦に関する政治・経済・軍事情報を交換しあい、協力して国民政府に対処していた。・・・
 尹騏(いんき)<は、自著の>『潘漢年の情報の生涯』<(注22)>の中で次のように述べている。

 (注22)この本、『潘漢年的情報生涯』、は、2011年1月1日付で人民出版社から上梓されており、2018年4月1日付で今度は中共黨史出版社から再上梓されている。
https://search.books.com.tw/search/query/key/%E5%B0%B9%E9%A8%8F/cat/all/adv_author/1

 1989年、公安省の支持と公安大学出版会の援助のもと、私は余暇の時間を利用して、『潘漢年伝』を書き上げた。
 …この傑出した人物の全貌を、可能なかぎり忠実に反映するため、執筆の過程では未公開の档案<(注23)(本訳書では档の旧字を用いているが、全般的翻訳方針と矛盾していることもあり、新字を用いた(太田))>を多数利用した。

 (注23)「中国における歴代政権の公文書。・・・特に中華人民共和国では国家による国民管理を目的に作成される個人の経歴、思想等の調査資料を収集した秘密文書である「人事档案」を特に示す場合がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%A3%E6%A1%88

 原稿は関係する指導的同志みずからが審査し、間違い個所を訂正し、さらに慎重を期して1991年に出版した際には、政法系[国家安全・公安・司法部門]内にかぎって配布された。
 印刷部数はごくわずかで、かぎられた範囲内でのみ閲覧が許された。
 …本書は執筆の過程で国家安全省情報史研究処の<某>同志の熱心な援助を得た」・・・
 たとえば岩井は、駐上海日本領事館が発給した特別通行証を潘に渡している。
 「通行証には、日本軍、憲兵、警察等が、本証明書の所持者を問いただす際には、必ず日本領事館と連絡を取るようにと書かれていた。
 つまり、これは「護身符」に等しいものである。
 岩井はまた、自分の名義で淮中飯店内に、安全かつ便利な活動場所を確保し、それを潘に提供した」。
 これこそ、情報戦の好敵手だった日本と中共の情報指導者の協力である。
 さらに、岩井は潘漢年を影佐禎昭に引き合わせている。・・・
 影佐は上海の「六三花園」で潘を食事に招待した。
 これは日本と中共の最高情報当局者の会見であった。
 太平洋戦争勃発後、廖承志をトップとする香港駐在の中共情報部員は撤退して新たな配属に就く必要があった。
 結局、彼らは潘経由で岩井に接触し、潘の派遣した人間が、駐上海日本領事館の派遣した要員とともに香港に出向き、中共情報グループの撤退をアレンジした。」(129~133)

⇒最初の方でも指摘したように、一体全体、どうして、こんな物騒な書き物を、流出するのを期待するような形で、中共の情報当局が、1991年に「秘密」出版させたのか、について、疑問を持たない、著者の謝幼田と訳者の坂井臣之助が、私には全く理解できません。
 だからこそ、私は、これは、中共当局によるところの、近未来を見据えた情報戦であって、この2人は中共の工作員である、と疑っているわけです。
 それにしても、この情報戦を開始したのは、当時、中共の最高権力者であったトウ小平(1904~97年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
である、ということにならざるをえないところ、改めて、トウの凄さを思い知らされた感があります。(太田)

(続く)
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–皆さんへの問いかけ(続x4)–

<K.K>

≫更なる大ヒントを出血大サービスで差し上げましょう。
 一言とは、「〇〇〇の違い」または「〇〇〇〇〇」の違いです。≪(コラム#10256。太田)

 3文字もしくは5文字ということから、合理論的に考えると、○○○=瘠我慢、○○○○○=伊達や酔狂(伊達と酔狂)、かなと思います。

 映画「七人の侍」を思い出してください。侍たちが「飯を喰わせる」というほぼ無償の条件で野武士と戦うわけですが、この映画を視て「何故そんな行動をしたのか?」と問う人は殆ど居ないと思います。強いて言葉で言い表そうとすると「伊達と酔狂」という言葉に私の中ではなります。
 自分の行動に対価や理由を求めてしまうと、その対価や理由に見合った程度のことしか出来ないけれど、「伊達と酔狂」で行った場合、無限に近いこともなし得るのではないかと思います。

 次に、大阪の「だんじり祭」や長野の「御柱祭」を思い浮かべてください。これらの祭りから、「ハレ」状態の人間(この場合、縄文人)は、「ケ」の状態では行わないようなことまで、「伊達と酔狂」で行ってしまうということがわかりますよね。
 明治維新・日中太平洋戦争(すなわち「島津斉彬コンセンサス」)は、弥生人も含めた日本人にとって、「ハレ」であったのではないかと思います。
(余談:「横井小楠コンセンサスのみ」は、縄文人にとっては「ハレ」(もしくは「ハレの代替品」)になりえますが、弥生人には「ケ」に過ぎないと思います。)
 東大や省庁に失望しかかっていた太田さんにとって、スタンフォードは「ハレ」であったのではないかと思います。
 太平洋戦争時の将兵もスタンフォード時代の太田さんも「ハレ」状態であったと仮定すると、「ケ」の状態では考えられない行動、「ケ」の状態の人からは信じがたい行動まで、「伊達と酔狂」で行ってしまったとしても不思議ではないと思います。

 ご友人のAさんは、太平洋戦争を「ケガレ」と思ってしまっているのではないかと思います。太平洋戦争が「ハレ」であったと思うことが出来れば、日本兵が信じがたい精神力を示したことも不思議に思わなくなるのではないでしょうか。 「伊達と酔狂」で行っていることに対して、何故と問うことは、最も野暮なことの一つだと思います。だからこそ、ご友人のBさんは太田さんには直接は問わないのではないかと思います。

≫「私」、「AとB」、「その他」、の三グループを分けるものは一体何か、ということ。
 解答は一言だ、ということを忘れないで!≪(コラム#10254)

私(太田さん):痩我慢する人(スタンフォード時代痩我慢していた人)
AさんとBさん:少なくとも、スタンフォード時代は痩我慢はしていなかった人
その他:功利主義等から、痩我慢をすることを知らない人

 「解答は一言だ」というのであれば「痩我慢!」かな~?。

<太田>

 スタンフォード時代だけ、或いはスタンフォード時代まで、を考えれば、K.K説も、大いにアリ、かもしれません。
 でも、「私」「AとB」「その他」は、みんな、現在に至ってもなお、「有事」「平時」を問わず、ブレることなく変わっておらず、だからこそ、今回の集まりをネタに私が皆さんに問いかけることになったことを思い出してください。
 あー、でも、この分じゃあ、関西オフ会までに、誰かが確実に正解をあてそうだなあ