太田述正コラム#10279(2018.12.28)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その18)/映画評論54:アリー/スター誕生(その1)/皆さんへの問いかけ(続x5)>(2019.3.19公開)

 「譚元享<(注24)>(たんげんきょう)著『潘漢年』の中には、中共文化部門の責任者の一人、楼適夷(ろうてきい)の回想が出てくるが、彼の回想は潘と日本の特務の尋常ならざる関係を映しだしている。

 (注24)「華南理工大學客家研究研所長、教授、博士生導師譚元享」
https://www.title01.net/2018/08/15/%E6%8A%8A%E8%84%88%E9%84%89%E6%9D%91%E6%97%85%E9%81%8A%E7%99%BC%E5%B1%95%EF%BC%8C%E6%9D%B1%E8%8E%9E%E9%80%99%E5%80%8B%E9%8E%AE%E6%89%93%E7%AE%97%E9%80%99%E6%A8%A3%E5%81%9A%EF%BC%81/
のことらしいこと、彼が、『廣州十三行:明清300年艱難曲折的外貿之路』(廣東經濟出版社 2015年)の著者
https://search.books.com.tw/search/query/cat/all/key/%E8%AD%9A%E5%85%83%E4%BA%AB/adv_author/1
でもあるらしいこと、くらいしか分からなかった。

⇒ネット上で、「譚元享;潘漢年」で検索をかけても全くヒットしません。
 著者には、本を引用する際に、必ず、出版社や出版年を付して欲しかったです。(太田)

 回想は、袁殊が日本特務機関に逮捕されたのち、救出された状況を次のように記している。
 「・・・潘<は>・・・袁逮捕の状況を・・・聞くと、袁の妻に、『大丈夫・・・この・・・電話・・・番号の相手に状況を説明すれば万事OKだ』と言葉をかけ、・・・<彼女が>電話すると、・・・出てきた・・・日本人は直接<ジョスフィールド>七六号に赴き、無事に袁を請け出してくれた。・・・
 電話をかけた先はまさに岩井<の領事>公館だった。
 潘の身分は岩井公館の主人、岩井英一が信頼する協力者兼情報員である。・・・
 日本と汪傀儡政権の特務機関は一本化されており、おのおのその職責をもっていた。

⇒そうであっても不思議はないとはいえ、やはり、著者は、典拠を付すべきでした。(太田)

 したがって、潘は日本の戦略情報の責任者岩井と直接関係をもつほか、汪傀儡政権の特務の頭目ともつながりをもっていた。・・・

⇒汪「傀儡」政権、といちいち書く著者のことが、私は大変気になります。
 この伝で行けば、この本の趣旨に照らし、毛沢東だって、いちいち「傀儡」毛沢東、と書くのが筋というものでしょうに・・。(太田)

  潘と李<子群>の情報交換は<対日>抗戦の勃発した2年目に始まり、6年間続いていた。・・・
 李子群との密接な関係は二つの事柄から見て取れる。
 もう一人の古参情報責任者劉仁寿(りゅうじんじゅ)は次のように回想している。・・・

⇒以下の劉仁寿の回想の典拠も付されていません。(太田)

 1942年11月初め<に>・・・中共江蘇省委員会書記の劉暁(龍行)らが上海から新四軍の駐屯地に到着した際、李の特務系統が全行程を護送した。・・・
 新四軍は<李の特務系統>から電報用暗号を得て、以来、汪傀儡政権と直接の電報連絡を開始した。・・・」(134~137)

(続く)
——————————————————————————-

         –映画評論54:アリー/スター誕生(その1)–

1 始めに

 映画評論53も同じですが、この映画評論54も、「その2」以下がいつになるのか、目途が経っていませんが、とにかく、シリーズで取り上げる、と決めたことを忘れないように、新シリーズの出だしだけ、書いておくことにしました。
 表記「アリー/スター誕生」を鑑賞したのは、2018年12月27日、TOHOシネマズ新宿においてです。
 併せて、「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」も鑑賞してきました。
 この2本にしたのは、前者の方により関心があったのですが、上映時間が、前者が12:20~14:50、後者が14:50~17:20、で、ロスタイムがゼロ、という効率の良さからです。
 もう一つ、シリアスな映画を見た後では他愛のない映画を、という気持ちもありました。
 で、最初に、身も蓋もない総括をしちゃいますが、前者は、さして面白くもない内容をレディー・ガガの時折の歌唱、というか歌唱力、だけでもって延々と我慢させた後、終幕近くのクライマックスで観客を泣かせる、という佳作映画でしたし、後者は、SFX戦闘シーンだけが取り柄の目も当てられないほどの失敗作映画でした。
(ちなみに、前日夜、インターネット予約をした際には、前者はガラガラなのに、後者はかなり予約が入っていたもののよさそうな席を取ることには苦労しない、という感じだったのですが、当日は、どちらも満席に近かったですね。
 平日とはいえ、ほとんど年末だったのと、新宿という地の利でしょうね。)
 というわけで、後者を映画評論コラムで取り上げるかどうかすら、決めかねています。

(続く)
——————————————————————————-

            –皆さんへの問いかけ(続x5)–

<K.K>

≫でも、「私」「AとB」「その他」は、みんな、現在に至ってもなお、「有事」「平時」を問わず、ブレることなく変わっておらず、…≪(コラム#10277。太田)

 「その他」というのが、「その他一般の人々」という意味ではなくて、「AさんとBさんを除くその他のスタンフォード時代の御学友」という意味だったのですね。そうしますと、解答は異なります。
 太平洋戦争の島嶼戦で亡くなられた将兵の方々が、もし仮に日本という国があまり好きではなかったのであれば、あそこまでは頑張らなかったハズですよね。 どこかしら日本という国に生まれたことを感謝していて、どこかしら日本という国に恩義を感じていたからこそ、あそこまで頑張れたのだと思います。
 戊辰戦争で亡くなられた会津藩士を思い浮かべてください。亡くなられた会津藩士の中には、新政府の方が正しそうだ、新政府の方が勝つだろうということはもう既に分かっていて、それでも尚、先祖代々長年禄を食んで来たということに感謝して、恩義を感じて、散っていった方も居ただろうと思います。
 私は静岡県在住なのですが、静岡県のお茶農家の中には旧幕臣が幕府瓦解後、静岡に入植してお茶農家を始めた例が多いということはご存知だと思います。
 そのお茶農家の方々の中には、新政府に出仕して立身出世する能力も有ったけれど、瓦解した幕府に”殉じて”お茶農家になった方も居ただろうと思います。
 太平洋戦争で亡くなられた将兵の方々、戊辰戦争で亡くなられた会津藩士、静岡の一部のお茶農家とでは、何に誰に恩義を感じていたのか、その恩義の為に何と誰とどの様に戦ったのか、といった点では異なりますが、根底に「御恩と奉公」があったという点では同じであるように私には思えます。
 太田さん、Aさん、Bさん、その他の御学友の方々も、何某かに恩義を感じていて、その何某というのはそれぞれで異なるけれども、また奉公の在り方もそれぞれで異なるけれども、根底に「御恩と奉公」があるという点では同じなのではないでしょうか。
 薩摩藩士が、会津藩士に、何故死ぬのか、などと問うはずがないです。同じ様に、Bさんが、太田さんに、何故?、などと問うはずがないように思えます。
 「〇〇○の違い」「〇〇○○○の違い」という形ではありませんが、「根底に、御恩と奉公が在る、という点では同じ」ということを、取り敢えずの解答とさせてください。

<太田>

 これはこれで面白かったけれど、私の問いかけで胸の内にある解答は、より「普遍的」なものです。