太田述正コラム#10281(2018.12.29)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その19)>(2019.3.20公開)
「もう一つの事柄は、李が潘と汪兆銘が直接会う場をアレンジしたことで、これは一般の情報工作の範囲を逸脱している。・・・
潘と汪のやり取りは次のとおりである。・・・
⇒著者は、この潘・汪面談の日付を記していませんが、前後の記述から、1942年末から43年初の間だと思われます。(太田)
汪 ・・・われわれが合作すれば、道は違っていても目的は同じです。
共産党が蒋介石と事を行わないよう希望します。
われわれと合作して初めて中国を救うことができるのです。・・・
潘 新四軍は必ず発展するでしょう。
将来、あなたが日本人と合作することが難しいと感じ、別の活路を見つけたいと思われたとき、新四軍はあなたを困らせることはしないし、あなたに生まれ変わる機会を与えるでしょう。
当時、中国国民政府、日本政府(プラス汪傀儡政権)、中共延安政府のうち、国民政府を一方とすれば、あとの二者は国民党の背後で事実上、ひそかに結びついていた。
汪兆銘が期待したのは、中共が国民政府との連合を放棄し、中共と汪傀儡政権が公然と新連合を組むことだった。・・・
潘の最後の回答は、双方が引き続き政治的に合作する余地を残したものである。・・・
だが汪が提起した合作の時機は遅すぎた。
1943年、ドイツ、イタリアは欧州の戦場で坂道を下り始め、日本が対英米戦争で敗北する情勢が明白になったからである。
中共はそれほど愚かではない。
中共はこのとき、連絡員兼情報責任者の潘漢年を呼び戻した。・・・
<ところで、>周仏海<は、>1897~1948年。・・・1917年来日、第七高等学校で学び、社会主義に関心を抱<き、>1924年帰国、国民党宣伝部秘書。中共離党後、国民党中央執行委員、中央宣伝部副部長を歴任、蒋介石の側近として活躍<し、>・・・38年12月、汪兆銘に従って重慶を離脱、1940年3月に南京政権に参画し、行政院副院長<(副首相)>、・・・上海市長・・・など要職を歴任<し、>汪の死後、蒋介石から再び接触を求められ、戦後は国民政府軍事委上海行動総隊総指揮に任ぜられたが、漢奸として逮捕され、1946年11月に死刑判決<を受け、>無期に減刑されたが獄中で死去<した、という人物だが、>・・・<彼の>『周仏海日記』によると、中共と汪兆銘政権の接触は潘漢年–李子群ルート以外に、周仏海経由のルートもあったようだ。
『日記』は次のように記している。
「1943年3月7日。…毛沢東が代表馮竜を密かに上海に派遣し、余との面会を求めており、共産党は南京と合作して、和平統一を促進したいとのことである。
予想外のことであり、再三考慮の上、原則数点を授け、接触した後再び余のところにきて報告するよう命じる」。
・・・『我は苦難の道を行く』によると、馮竜というのは、共産軍の幹部として新四軍司令部参謀処課長を務めていた人物で、<汪政権下の高級官僚>の甥である。
当時、中央軍事委員会副主席だった劉少奇の命令を受け、敵情視察と物資買付けという名目で上海に来ていた。・・・」(137~139、150~151)
⇒毛沢東が、彼の代理人2人を立て続けに汪や周と面談させたのは、既に、毛と杉山らとの間では、影佐を通じて強固な合作が成立していたところ、汪らが杉山らと果たして一心同体であるかどうかを最終的に見極めるためだった、というのが私の見立てです。
その結果、(恐らくですが、)一心同体ではない、と見切りをつけ、汪政権との合作の本格化を見送った、ということではなかったか、とも。
(また、日本の大東亜戦争での予定通りの「敗北」後、汪政権高官達を毛が引き取って蒋介石政権による報復から守ってやるべきかどうかを判断する目的もあったのではないか、とも。)
なお、以上が正しいとすれば、毛が潘を延安に引き揚げさせたのは、1943年に、カウンターパートたる影佐が支那を離れラバウルに転任になったこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E4%BD%90%E7%A6%8E%E6%98%AD 前掲
かつ、日本軍が1944年春から大陸打通作戦を展開し蒋介石政権に致命的打撃を与える運びになったこと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6
から、潘を上海に派遣し続ける意味が薄れたから、ではないでしょうか。(太田)
(続く)